映画やドラマで活躍する岡山市出身の俳優、八名信夫さんがこれまでの人生をつづったエッセイ「悪役は口に苦し」を2024年8月に出版した。89歳を迎えた今、伝えたいこととは。八名さんに話を聞いた。

執筆のきっかけは?岡山空襲の体験談も

1935年、岡山市生まれの八名信夫さんは、元・プロ野球選手で俳優、特に名悪役として人気者となった。故郷への愛も強く、岡山へ度々帰ってきては名産品をPRしたり、犯罪撲滅のための活動を行うなど幅広く取り組んできた。

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自伝を執筆しようと思ったきっかけについて、八名さんは「89歳になった。自分の人生を振り返って、生き方が良かったのか、ダメだったのか思い出しながらつづってみようというのが最初。そうしたらいろんなものが出てきた。みんなに知ってほしいことが」と話す。

自伝には、9歳の時に体験した岡山空襲のことも書かれている。

八名信夫さん:
昭和20年6月29日、親父が「起きろ~!」と部屋に来て、びっくりして起きて、『空襲じゃぁ、逃げぇ!』と。表に出たら煙、煙、煙…で、軒下から火を噴いていた。同級生の女の子が玄関にはい出している。血だらけで汚れて、浴衣が。俺は怖かった。助けてやれなかった。あの姿がいまだに消えない。すごく残酷。

「戦争はいろんなものを破壊するけれど、人の心まで変えてしまう」。しかし、野球という存在が八名さんの心の支えになった。

八名信夫さん:
ある時、米兵がキャッチボールをしていた。休憩時間に投げっこしていて。ジーッと見て、あれなんだろうってすごく面白いことがあるんだと。家に帰ってサツマイモを丸く切って、それを軍手で包んでボールを作った。それで投げたのが初めてのキャッチボールだった。

野球に夢中になった青年時代。岡山東高校(現:岡山東商業高校)では甲子園にも出場した。
「ピッチャーにはライトが当たっている。目立つ。目立たなきゃいかんなと思って」。八名さんがピッチャーを選んだ理由だ。

プロ野球選手から俳優に転向

1956年には東映フライヤーズに入団。プロ野球選手になったが、シーズン3年目にケガをして現役引退。球団のオーナー会社である「東映」で俳優に転向することに。悪役を数多く演じ、俳優として名前を知られるようになる。

「徹底して悪役を勉強した。洋画を見たり、葉巻の煙をどうやって上げたら迫力があるか。顔を映すだけではダメ。葉巻の煙が上がる不気味さ。だからわざと後ろから映してもらったり。そういうことを勉強しながら迫力を出していった」と当時を振り返る。

1983年には悪役を演じる俳優仲間と「悪役商会」を結成。CMや舞台にも挑戦し充実した日々を送る一方で、「もう役者をやめたい、岡山に帰って何かやろうかなと思った」と悩みを抱えていた時期もあった。

さまざまなことに挑戦し充実した日々を送る一方、もちろん悩みもあった

しかし、それが八名さんに訪れた人生の転機でもあった。

八名信夫さん:
岡山に「利生院」という寺があって訪ねて行って。そこの住職が恩師。「お前な、人生を送るというのは悩みを持って送る、これが人生なんだ。全ての悩みを持った人間は、悩みを乗り越える力を持っているということを忘れるな」と怒鳴ってくれた。それで俺は(俳優を)続けられた。

やってみたかった職業について、笑いながら答えてくれた八名さん

プロ野球選手、俳優として人生を送ってきた八名さんだが、「警察官」という職業にも興味があるのか、「(役で)捕まりすぎてるからねぇ…。逆にこっちが捕まえるのも面白いかなって」と笑って話していた。

人生を振り返り、いま伝えたいこと

9月に岡山市内で開かれた八名さんの本の出版を祝う会には、友人や仕事の関係者、そして長年のファンなど約200人が集まり、会場は大いに盛り上がった。

参加したファンらは、「テレビで見る八名さんとは違った一面が見られて、温かい人、すてきな人だなと思った」「昔『キカイダー01』という特撮番組で悪役のドンで出演していた。それからファン。一度会いたいと思っていた。きょうは胸いっぱい。良かった」とうれしそうな表情で熱く語った。

おちゃめな89歳、八名信夫さん。波乱万丈な人生を振り返って、いま、視聴者に伝えたいこととは…

八名信夫さん:
正直に生きていってほしい。みんなに。やる気があれば、正直に生きていけば乗り越えることができる。頑張ろう、それしかない。

(岡山放送)

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