昨年の都市対抗野球大会で33年ぶりに決勝に進出し、準優勝したヤマハ(浜松市)。今季、東海地区第1代表を獲得したチームは、伝統の強打に加えて、投手陣の粘りが際立つ。そんなブルペンを献身的に支えるのが、ブラジルから来日18年目、投手兼コーチのフェリペ・ナテル(35)だ。
小学1年で野球を始めた。「野球の仲間の9割方は日系の子どもたち。彼らと野球ができる土日が楽しみだった」。11歳でブラジル代表入り。ヤクルトの現地法人がブラジル野球ソフトボール連盟と共同運営する育成施設「ヤクルト野球アカデミー」で学び、頭角を現した。
ヤマハ入りが決まり2007年に日本へ。17歳のナテルを成田空港で迎えたのが、当時の野球部マネジャーだった申原直樹・現監督(45)だった。浜松までの道中、申原監督が忘れがたい小さな出来事があった。新幹線の車中、軽食を取るためにナテルにサンドイッチを買った。「全く言葉が通じないのに、『分けて食べましょう』と身ぶり手ぶりで勧める。気遣いのできる、優しい子だと分かりましたね」と振り返る。
当時の野球部は専用バスで移動した。運転手は申原マネジャー。その隣がナテル専用の席だった。そこは、大切な日本語の学びの場だった。「道路脇の看板の文字を(申原)監督に次から次へと読んでもらい、ひらがなやカタカナを覚えた」とナテルは懐かしむ。
もちろん投手としても頭角を現した。20歳で迎えた、09年の第80回大会で都市対抗本大会初のマウンドに挑んだ。初戦の富士重工業(群馬県太田市、現SUBARU)戦で、同点に追いつかれた九回2死一、三塁のピンチで登板した。ここを三振で切り抜けると十一回まで投げ抜き、チームを勝利に導いた。接戦でのデビューを「楽しかった」としみじみ言う。その後、主力へと成長し、コーチ兼任となった昨年の都市対抗も、王子(愛知県春日井市)との準決勝で先発し5回を無失点に抑えた。しかし、これを最後に公式戦には登板していない。
コーチとして育てる側に
「春先のキャンプからコーチとして若手を見るようになって、自分が登板すれば彼らのチャンスを奪うことになると考えるようになった。見守る側に回ろうと思った」と心境の変化を明かす。
「見守る側」として期待を掛ける若手の一人が、静岡・掛川西高卒で入社3年目の左腕・沢山優介(20)だ。両親がブラジルにルーツを持ち、22年・WBC予選(パナマ)と23年のパンアメリカン競技大会(チリ)でナテルと共にブラジル代表に加わった。日本とは治安状況も異なる中南米での試合に、ナテルは「コーチというより、兄として心配で、面倒をみていましたね」。沢山自身は「心から野球を楽しむチームで、とても刺激になった」と話す。
沢山は今季、春のJABA大会でも活躍。長身からの150キロ超の速球は、プロからも注目されている。ナテルは「ヤマハのエースになり、プロ野球に行ってほしい。昨年からの成長の幅が大きく、彼がどこまで伸びるか楽しみ」と目を細める。
ナテル自身もまた、プロ野球を目標に来日したが機会に恵まれなかった。それでも、心が折れたことはないという。「いつも『来年も野球をすること』と、周囲で助けてくれる人たちの分も頑張ることを目標にしてきた」。若手の頃は、必死で走り込み、投げ込んだ。近年は科学的なトレーニング方法や、映像などを活用した練習にも取り組んできた。両極端ともいえる経験が、コーチとして生きていると考えている。
何より心掛けているのは、「話しやすい環境。必要な時に、必要な声を掛けること」。ナテルと同年生まれで、補強選手を含めて都市対抗10年連続出場となる左腕・九谷青孝(34)は、「練習メニューを考えたり、データを取ったり、本当に助けられている」と感謝する。
浜松市で家族と暮らし、「引退後、しっかり仕事をしなくては」といったことも頭をよぎる。「本当は昨年、都市対抗で優勝して引退したかった。お世話になった多くの人たちに『やりきりました』と言いたかった」と明かす。一年越しの夢を「伸びしろがいっぱい」の選手たちと共に追いかける。【藤倉聡子】
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