長崎市の被爆者、築城昭平さん(97)が、同市の原爆資料館を訪れたパキスタン、イラクなど25カ国の外交官や国連職員らに英語で体験を語った。築城さんは「世界中の核兵器を廃絶すれば、誰も犠牲になることはない。核兵器のない平和な世界のために、この老人の言葉を忘れないで」と訴えた。【尾形有菜】
築城さんは、長崎師範学校2年だった18歳の時、爆心地から約1・8キロの学徒動員先の寮で被爆。左手首と左足をやけどし、飛び散ったガラス片で体中から血が流れた。戦後は中学の教員になり、50代から被爆の経験を語ってきたが、「世界の人に体験を聴いてもらわなければ」と90歳から英語を学び直した。
築城さんは「死んだ赤ん坊を抱いた若い母親がいた」「(被爆した人は)人間の形をしているが、血で真っ赤だったり、やけどで黒かったりしてゾンビのよう。地獄みたいだった」などと、被爆後のまちの様子を振り返った。
また、爆心地から約1・8キロで被爆した谷口稜曄(すみてる)さん(2017年に88歳で死去)が背中一面に大やけどを負った写真を見せながら「彼と私は爆心地から同じ距離にいた」などと説明した。
外交官らは、国連が開発途上国で軍縮専門家を育成する「国連軍縮フェローシップ」のプログラムで広島と長崎を訪問。参加者からは「当時は広島に原爆が落ちたことは知っていたのか」「子供や若い人に伝えたいことは」などの質問が相次いだ。
築城さんは「被爆の実相を、世界にもっともっと知らせてもらいたい。世界中の人が知ることによって、核兵器は禁止の方向に向かっていくんじゃないか」と言葉に力を込めた。
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