終戦2日前に米軍機の空襲で47人が犠牲となった「長野空襲」から79年が経った13日、長野市で39回目となる「長野空襲を語る集い」が開かれました。

語り部の高齢化が懸念される中、主催団体の世話人を務める23歳の男性が若い世代に記憶の橋渡しをする役割を担おうとしています。

長野空襲を体験した碓井智以子さん:
「空襲警報発令と大きな声で叫びながら近所に触れて歩きます。すると家の中では急いで灯りが米軍にばれないように電気の傘を真っ暗な布で覆います」

1945(昭和20)年8月13日、長野駅や長野飛行場を米軍機が空襲し、ロケット弾や機銃掃射で47人が犠牲となりました。終戦のわずか2日前のことです。

空襲から79年が経った13日、長野市で開かれた「長野空襲を語る集い」で当時6歳だった碓井智以子さんは母親と逃げまどった経験を自作の紙芝居で語りました。

碓井さん:
「あれ(月)が真上に来ると爆発して落ちてくるそうだよと。月が爆弾に見えてしまったのです」「当たり前と思うことも平和な社会でなければできません。いつまでも平和な社会が続きますように。ちいちゃんは心から祈っています」

会場を訪れた約40人の参加者は、79年前に起きた悲劇に真剣に耳を傾けていました。

高校3年生:
「長野空襲について学ぶ機会がなくてきょう大変なことだったと知りました。風化させないために自分たちも知らないと」
70代男性:
「体験者から生で聞ける話は良いですね。こういう話を聞いて平和にしていかなければと思います」

碓井さんは、自分の経験が戦争と平和について考えるきっかけになればと話します。

碓井智以子さん:
「子供たちは戦争がこんな身近に来るようなことは考えていなかったと思う。身近に戦争というものが起きたらどうなるか、その怖さを考えてほしい」


毎年、この日に集いを主催して来たのは市民団体「長野空襲を語り継ぐ会」です。

その運営に携わる23歳の若者がいます。同世代やもっと若い世代にも届くようにと公式サイトを立ち上げるなどして会の活動を支えています。

「米軍機は松岡からその後は長野駅という形で、実は結構ぐるぐる旋回していたんです」

13日の「長野空襲を語る集い」で司会や会の活動報告をした若林準也さん。長野市出身の23歳で東京の大学を卒業後、名古屋市の企業で働きながら「長野空襲を語り継ぐ会」の世話人をしています。

若林さん:
「教科書で学ぶ歴史とかは事実としては残るけど熱量が伴わないんです。語り部の熱い主張というものは無いので」


8月3日、若林さんは「長野空襲を語り継ぐ会」の事務局長の伝田豊美さんと集いの打ち合わせをしていました。中学生の時に初めて長野空襲のことを知り衝撃を受けたといいます。

若林さん:「地元長野で空襲があったというのを当時知らなかったのですが、体験者の方からお話を聞いてひとごとでは無いというか、より戦争が身近になった瞬間でした。誰かが語り継いでいかないといけないという中で自分がやるべきだと思いました」

5年前に会の世話人になり、友人を誘って公式ホームページを立ち上げました。空襲の被害の概要などを初めての人にもわかりやすく伝えています。高齢のメンバーが多かったこれまでの会の活動には無かったことです。

若林さん:
「若い世代が、長野の空襲があったんだ、ちょっと調べてみようとふと思った時に当時の体験談とかを見られるサイトがあれば非常に助かると思って作りました」

若い世代が参加してくれたことに伝田事務局長は・・・。

伝田豊美さん:
「(会の名前は)「語り継ぐ」というんだけど本当にこのバトンが渡るのか心配していました。若林さんの参加は希望といいますか一つの糸口が見えたということで非常に喜んでいます」

会のホームページを見た東京の中学校から若林さんに平和学習の講師の依頼があったり、「亡くなったのは私の肉親かも知れない」と問い合わせがあったりと予想以上の効果がありました。

来年の2025年で終戦から80年となり、「長野空襲を語る集い」も始まってから40年の節目の年を迎えます。

空襲を体験した世代が減る中、若林さんは証言を映像で残してホームページで見られるようにするなど、次の世代への伝え方を模索しています。

若林さん:
「来年以降は小中学校への講演をより多くして集いへの参加者も増やしていきたいと思います。長野空襲を無かったものにさせない、風化させないというのを目標に活動していきたいです」

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