毎日新聞が戦時中に発行した青年向け雑誌「大日本青年」には、延べ1万5000人を超える読者からの投稿が掲載されました。
彼らは戦争の時代をどう生き抜いたのか。あるいは命を落としたのか。
その人生をたどり、受け止めるため、「大日本青年」の残像を記者たちが追いかけました。
連載「大日本青年を追って」は全11本のシリーズです。
15日まで各回とも前編・後編を毎朝7時にアップします。
プロローグ 記者がたどった投稿者の運命
初回 断ち切った王家の系譜 前編・後編
第2回 戦死者の24のうた 前編・後編
第3回 もう一人の「木本武男」 前編・後編
第4回 バリカン少女 前編・後編
最終回 軍神の息子 前編・後編
その名簿を手にした時にずっしりとした重みを感じたのは、ただ分厚いからだけでなく、1万人の兵士たちの名が刻まれているからだろうか。
広島県呉市にあった海軍の拠点、呉鎮守府の「軍人入籍番号簿」は全部で80冊ある。7月上旬、このうち11冊の申請手続きをして、東京都千代田区の国立公文書館で閲覧した。
入籍番号順に並び、下士官任官の年月や兵種などに続いて、最後に名前が記されている。そして、戦争で亡くなったかどうかも。
約1万人の名前が載る厚さ15センチほどの1冊を見終えるだけで1時間以上を費やした。記者3人で手分けして探し、5時間半後、9冊目の名簿にその名前はあった。
「木本武男」
名前の上には、赤字で「19年11月 戦死」。「荒瀬武男」と手書きされた上から「荒瀬」に二重線が引かれ、「木本」と加筆されていた。
1942(昭和17)年1月から44年3月にかけて雑誌「大日本青年」に24作の短歌と俳句が載った常連投稿者だった。住所は「呉市」あるいは「軍艦八雲」。「木本花蝶」の雅号で投稿することもあった。
最終号にはまとめて4首の短歌が載った。最後はこの歌で終わっている。
「甲板を掃(は)きて集めし弾片の中より一つ記念にひろふ」
それから8カ月後に戦死した武男さんはどんな思いを歌に乗せて船上から投稿してきたのだろう。
鉛筆書きで残された住所
名簿から判明した武男さんの入籍番号を頼りに、個人ごとに軍歴が詳しく記録されている「海軍軍人叙位叙勲履歴票」も見つけることができた。
木本さんは34年、19歳で海軍に入隊。38、39年には中国の戦地で任務に就いた。投稿の時期と重なる42年4月から43年1月には、やはり呉を拠点としていた軍艦八雲に乗艦していた。
その後、呉を母港としていた水雷艇の「雉(きじ)」に乗って戦地に向かう。戦死したのは44年11月21日。29歳だった。
履歴票の右端には、鉛筆書きで住所も記されていた。「熊本県天草郡大道村字葛崎 荒瀬仲松方」と書かれ、妻の名前もあった。
住所は現在の上天草市龍ケ岳町大道に当たる。住宅地図や電話帳で「荒瀬」姓を調べると、周辺に7軒あった。そのすべてに手紙を出すと、翌日、記者の携帯電話が鳴った。
電話をくれた荒瀬大徳(ひろのり)さん(83)は言った。「木本武男さんは私の親戚ですよ」
一人息子も俳句が趣味だった
履歴票にあった仲松(ちゅうまつ)さんは武男さんの父で、武男さんは8人きょうだいの2番目の次男として生まれた。荒瀬姓から木本姓に変わったのは、妻の家に養子に入ったからだった。
武男さんの妻は夫の戦死後、武男さんの弟で四男の武明さんと再婚。しかし、武明さんも戦地で患ったマラリアとみられる病気で戦後まもなく亡くなり、五男の武徳さんと再婚した。
武男さんの妻やきょうだいは既に鬼籍に入っていた。だが、大徳さんに紹介してもらった親族から、武男さんの一人息子が山口県下関市にいると聞いた。武男さんの投稿を添えて、教えてもらった住所に手紙を出した。
7月中旬、梅雨が終わりかけた下関市。一人息子の照夫さん(82)とその妻光枝さん(80)の自宅は下関市中心部から車で20分ほどの郊外にあった。
照夫さんは認知症が進み、市内の高齢者施設で暮らしていた。光枝さんは武男さんの投稿を見つめながら、「手紙を読んでびっくりしたんですが、夫も俳句や川柳を作るのが趣味だったんですよ」と教えてくれた。
茶色の表紙に「軍事日記」
照夫さんは中学卒業後、天草から福岡市に移り住んで理容師として修業を積んだ。その頃、近くに住んでいた光枝さんと出会い、光枝さんが両親とともに引っ越した下関に照夫さんもやって来て結婚。市内で理容店を開いた。
照夫さんの俳句や川柳は新聞に載ったり、地元の芸術祭で佳作に選ばれたりした。始めたきっかけを光枝さんは聞いたことがなかったが、「やっぱり親子なんですね」とつぶやいた。
自宅の仏間には、武男さんの遺影が掲げられていた。目鼻立ちがはっきりしたりりしい顔つきだった。
光枝さんは「他にもありますよ」と言って、武男さんらの写真が収められたアルバムを見せてくれた。アルバムをめくっていくと、最後のページに、茶色の表紙に「軍事日記 第十一班長」と書かれた手帳が入っていた。
名刺より一回り大きいくらいのその手帳を開くと、中国の地図が4枚挟まっている。さらにめくっていくと、鉛筆で書かれた日記が「昭和18年1月24日」から始まっていた。
履歴票に照らすと、武男さんはその日に「八雲」での任務を終え、翌25日付で「雉」に転属している。手帳には短歌でその時のことがしたためられていた。
「省みる三歳なつかしいくさぶね八雲と別離の情やみがたし」
八雲での3年間の任務を振り返り、離れがたい思いが伝わってくる。
手帳に詰め込んだ自分の世界
手帳には、敵機との交戦や、派兵先のインドネシアの島々の様子を短歌でつづっていた。故郷への思いや妻に触れたこんな歌もあった。
昭和18年3月 「南十字星輝く下に集ひけり故郷の話に兵等夜更かす」
昭和18年4月24日 「みんなみ(南)の清き月夜はふるさとの妻のことなど思ひめぐるも」
日記にある最後の日付は「昭和18年6月10日」だった。
大日本青年に載った武男さんの投稿は、昭和18年2月15日号以降しばらく途絶え、最終号の19年3月号まで登場しない。
選者は講評に「木本君は兵曹長で水雷艇○に搭乗。南溟(なんめい)に戦ひつつある」と書き添えている。○は「雉」が伏せ字にされ、「南溟」は南の海を意味する。
投稿できなかった間も武男さんは自分の世界を詰め込んだ歌をこの手帳につづっていたのだろうか。
手帳の最後のページの住所欄には「水雷艇雉」とあり、姓名欄には、こう書いていた。
「花蝶 木本武男」
常連投稿者だった木本武男さんにようやく出会えた。
【安藤いく子】
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