赤川勇治さん(左)から漂流ポストを引き継いだ古山敬光さん=岩手県陸前高田市の慈恩寺で2024年4月8日、根本太一撮影
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 東日本大震災で亡くなった人へ宛てた手紙を預かる「漂流ポスト」の管理人、赤川勇治さん(74)=岩手県陸前高田市=が「引退」する。2014年から自営のカフェ(現在は閉店)の庭にポストを置き、大切な家族や友人を失った人たちからの手紙を受け付けてきた。これまで届いた手紙は1000通余り。年齢などを理由に、設置から10年を区切りとして引退を決めた。9日からは、近くの寺院がポストを引き継ぐ。

 「家族や友への思いを文字に表すことで、胸に閉じ込められた悲しみが和らぐのなら」

 赤川さんは震災から3年後の14年3月、そんな思いで漂流ポストを始めた。営んでいたカフェ「森の小舎(こや)」の庭に古い郵便ポストを据え付け、「行く当てのない手紙が流れ着く場所」という意味を名前に込めた。

赤川勇治さんがカフェの前に設置していた漂流ポスト=岩手県陸前高田市広田町で2018年9月26日、小川昌宏撮影
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 ポストには、切々としたメッセージが毎週のように届く。

 「夢でもいいから逢(あ)いにきてください。そして声を聞かせてください」。避難したビルの目の前で夫(当時56歳)が津波にのまれた宮城県南三陸町の女性(67)は、手紙にそうしたためた。

 娘(当時28歳)夫婦と小学校入学直前だった孫(同6歳)を亡くした仙台市の女性(75)は、便箋4枚の最後を「あなたたちの分まで力強く生きます」と締めくくった。

 活動は広く共感を呼び、漂流ポストを題材に映画が製作されたり、震災遺児を支援する「毎日希望奨学金」のチャリティーコンサートが開かれたりしてきた。

 赤川さんはこれまで届いた手紙を厚いファイルに保管し、毎年秋の彼岸過ぎには、カフェから車で10分ほどにある「慈恩寺」で供養の法要をしてきた。遺族を招き、共に焼香したこともある。19年秋にカフェを閉店しても、管理人としての活動は続けてきた。

 だが、震災から13年の今年3月、はっと気付いた。「僕の母親は生きているのに、放ったらかしにしているじゃないか」。2年ほど前から認知症の症状が出始めた母親(98)は、岩手県内の内陸部にある施設に預けたまま。新型コロナウイルス禍もあり、面会することもなかなかできずにいた。

 「身内を亡くした方には気配りするのに、自分の母親にはできていない。母さん、本当にごめんなさい」。ボランティアのつもりで始めたポストの設置から10年。「これからは毎日、母さんを見舞って、親不孝の穴埋めをしたい」

 これを機にポストは廃止しようと思ったが、手紙を出してきた人たちからは存続を求める声が上がった。長男を亡くした宮城県登米市の女性(61)は「手紙を書けなくなったら思いを吐き出す場所がなくなってしまう」と涙した。「命を絶とうかと考えたが、ポストがあったから生きてこられた」と訴える遺族もいた。

 思い悩む赤川さんに声をかけたのが、慈恩寺の前住職、古山敬光さん(75)だった。住職の座を退いて隠居したばかりなので、代わりに管理人を引き受けてくれるという。「今まで一人で背負ってくれて、ありがとう」。古山さんはそう言ってくれた。

これまでに漂流ポストに届いた手紙=岩手県陸前高田市広田町で2018年9月26日、小川昌宏撮影
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 赤川さんは8日、慈恩寺を訪ね、遺族の思いの詰まった約1000通の手紙を託した。円柱形のポストも境内に移設し、今後も手紙を受け付ける。

 古山さんは「ずっと赤川さんを気にかけていた。尊いポストを引き継ぎ、遺族の方がいらっしゃれば一緒にお話をさせていただきたい」と語った。赤川さんは「母を施設に預けて以来、何もしてあげられない後ろめたさと、手紙を書かれる方への責任で押しつぶされそうになっていた」と声を詰まらせながら感謝した。

 新しい宛先は、〒029―2208 岩手県陸前高田市広田町泊53 慈恩寺「漂流ポスト」。【根本太一】

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