スーパーバンタム級世界4団体王座統一戦 4回、マーロン・タパレス(右)からダウンを奪った井上尚弥=2023年12月、有明アリーナで
◆勝って当たり前…会場には空席
どうすればいいのだろうか。目の前の井上尚の表情が徐々に曇っていった。2017年、スーパーフライ級で世界王座の防衛を重ねていた頃のことだ。希望する相手に対戦オファーを出しても全部断られる。結果、勝って当たり前の防衛戦になり、会場には空席が目立った。 「相手に『勝てた』という満足感がないんです。昭和とか辰吉(丈一郎)さんのように、熱狂を生みたいのに…。あの時代がうらやましい」 物足りない相手。勝ち続けても世間にまで届かない人気。井上尚の最もつらく、もどかしい時期だった。「(約1万席の)有明コロシアムを満員にするのが目標」と掲げたこともある。◆僕は試合を見てもらえればいい
しかし、人気取りや話題づくりへ走ることはなかった。ボクシングでよく見られる舌戦やパフォーマンスは一切ない。相手の挑発にも乗らない。サイドストーリーも必要ない。ただ拳を磨き、リング上のファイトで魅了する。それが井上尚のポリシーだ。だからこそ、心の底から切望するかのように言った。スーパーバンタム級世界4団体王座統一戦で。マーロン・タパレスにKO勝ちして4団体のベルトを巻く井上尚弥(中央)
「僕は試合を見てもらえばいい。ヒリヒリする強い相手とやりたいし、それがファンに一番響くと思うんです」 転機となったのは階級をバンタム級に上げ、各団体の世界王者らが集う8人によるトーナメント、WBSS(ワールド・ボクシング・スーパーシリーズ)の開催だ。プロ17戦目。観衆は初めて1万人を超え、元世界スーパー王者フアンカルロス・パヤノ(ドミニカ共和国)を70秒で沈めた。準決勝は国際ボクシング連盟(IBF)王者のエマヌエル・ロドリゲス(プエルトリコ)を2回TKO。猛者を相手に衝撃KOの連続で、桁外れの強さが世に伝わっていく。◆押し寄せてくる声援、悲鳴、熱気
決勝は5階級制覇の実績があるノニト・ドネア(フィリピン)との対戦。会場は2万人超の大観衆で埋め尽くされた。試合開始のゴングが鳴る。その瞬間、リング上の井上尚には四方から地鳴りのような歓声と熱気が自分に向かって押し寄せてくるような感覚があったという。「1ラウンドが始まるときの大歓声はうれしかったし、今でも忘れられない」と言うほどだ。スーパーバンタム級世界4団体王座統一戦で勝利を収め、観客の声援を受けながら引き揚げる井上尚弥(中央)
ドネアとの拳のぶつかり合いが熱狂を生み、声援と悲鳴が交錯した。試合後、井上尚は右眼窩(がんか)底骨折を負っているにもかかわらず、少年のような顔でこう言った。「めちゃくちゃ楽しかったです」。強者と白熱の試合を演じ、大歓声の喜びをかみしめ、明らかに興奮していた。 その後、再戦でドネアを返り討ちにし、全階級を通じた最強ランキング「パウンド・フォー・パウンド(PFP)」で1位となり、世界中から注目されるボクサーになった。バンタム級で4団体の王座を統一。スーパーバンタム級に上げるや、2試合で4団体のベルトを手にした。◆世界王者10年、そして東京ドームへ
いまや試合会場は超満員。チケットはすぐに完売し、プラチナペーパーと化す。これまでのボクシングファンの層とは違う、若者や女性をも取り込んでいる。対戦相手にも事欠かず、名のあるボクサーたちが井上尚との対戦を求め、列をなしている。 昨年、東京ドーム側から「やりませんか?」と井上陣営にオファーがあり、ボクシングではマイク・タイソン以来、34年ぶりとなる東京ドーム開催が決まった。日本人で初のメインイベントを務める。どんなときでも己の拳を信じ、誰も到達できなかった場所へとたどり着いた。 「みんなが何を見に来ているかといったら、自分のボクシング。スーパーフライ級時代は有明コロシアムや地元の座間でも会場が埋まらなかった。そのときも、自分がどんな試合をみせられるかだけを考えてきた」 一試合一試合、拳一つで惹(ひ)きつけてきた。世界王者になってから10年。満員の観客から歓声を浴びながら、東京ドームのリングに立つ。 鄭重声明:本文の著作権は原作者に帰属します。記事の転載は情報の伝達のみを目的としており、投資の助言を構成するものではありません。もし侵害行為があれば、すぐにご連絡ください。修正または削除いたします。ありがとうございます。