大の里(中央手前)の土俵入りを見届ける父の中村知幸さん(同奥)=東京・両国国技館で2024年9月22日、三浦研吾撮影

 大相撲の西関脇・大の里(24)=本名・中村泰輝、二所ノ関部屋=が22日に千秋楽を迎えた秋場所後の大関昇進を確実にした。

 22日は、大の里に相撲の手ほどきをした父知幸さん(48)も東京・両国国技館で観戦した。昇進すれば初土俵から9場所という史上最速のスピードで出世を遂げることになる息子を、つかず離れずで見守っている。

 出生時の体重が4000グラムを超えていたという大の里の恵まれた体格は、大柄な父譲りでもある。知幸さん自身も地元・石川県の中学、高校時代は相撲に打ち込み、社会人になってからも県内の大会に出場。大の里も小学1年から津幡町の相撲教室に通い出した。

 これが、知幸さんの転機になる。「息子が相撲を始めた頃は、僕も30歳過ぎ。『現役を続けるのはもういいかな』と、教える側に回ろうと思ったんです」。自らまわしをつけ、その教室で指導をするようになった。

 ほかの子どもと比べて人一倍厳しく大の里に接したというが、親子は家庭でも相撲談議をしていた。「妻や(大の里の)妹は話に入れないので、2人でドライブがてらに相手の研究をしていましたね」

 少年・中村泰輝は日を追うごとに、相撲に魅せられていく。

 金沢市の石川県卯辰(うたつ)山相撲場で開催される高校相撲金沢大会。全国の強豪が集う毎年恒例の大会を、大の里は小学1年生から6年間続けて観戦したという。

 「こっちが『もういいよ』と思っても、本人から『(卯辰)山に連れて行って』と言ってきて……」

 大会プログラムに結果を熱心に書き込む大の里の姿は関係者の目にも留まり、お菓子を分けてもらったこともあったという。

 小学校卒業後は、地域の中学・高校が連携した一貫指導を展開し、街ぐるみで相撲に取り組む新潟県糸魚川市へ留学した。強くなることに貪欲だった大の里本人の進学希望に、知幸さんも反対することはなかった。

 10代前半にして「親離れ」を決意する場面もあった。

 中学入学から数カ月ほどたった後、大会応援に駆けつける知幸さんに、大の里は相撲については口出しはしないよう伝えた。「自分から言った手前、『失敗はできん』という自覚と責任の証しだったんやと思います」と、知幸さんは振り返る。

父の中村知幸さん(左)と握手する大の里=茨城県つくば市で2024年5月26日午後8時40分、宮武祐希撮影

 父子は、適度な距離感でつながっている。よほどのことがない限り、無料通信アプリのLINE(ライン)でやりとりするのは本場所が始まる前日まで、というのが暗黙の了解だ。

 大関昇進がかかった秋場所の前日は9月7日だった。翌8日の初日を観戦するために上京してきた知幸さんは、「最後」のメッセージをLINEに送った。ただ、内容は勝負がかかる場所を前にしたものとは思えない「ゆるい」ものだった。

 「長州(力)と武藤(敬司)がいたよ」

 「すげえ」

 知幸さんが、かつての名レスラーを目撃したとの話だった。「彼(大の里)、プロレスが好きだから。気持ちを和らげようかな、と。『絶対、この場所で大関取りだ』なんて言うつもりはないし」

 ただ、本場所中はやり取りをしないはずが、秋場所は優勝が決まった14日目の取組後はは珍しく大の里から電話がかかってきたという。「『やったよー』と。よっぽどうれしかったんでしょうね」。成長の跡をまた見せた息子の姿をこの日は直接見届けた。

 思えば、親子が生活を共にしたのは大の里の小学校時代までだ。故郷・石川県は、元日の能登半島地震に見舞われた。大の里が生まれ育った津幡町は県中央部にあり被害は少なかったというが、県内にある祖父母の自宅は被災し、現在も避難生活を余儀なくされている。「(能登地方出身の)遠藤関や輝関もいるので被害を背負い込むことはないだろうけど、心は常に石川にあると思う」。知幸さんは息子の心情を推し量る。

 大の里の本名は、泰輝と書いて「だいき」と読む。元々はその名の響きを気に入って付けたが、姓名判断などで「大」ではなく、「泰」の字を選んだという。さほど深いこだわりはなかったというが、「天下泰平(たいへい)という意味になるのかな」と知幸さん。大の里は本名の通り、群雄割拠の角界を治めることができるか。【岩壁峻】

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