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 28日にパラリンピックが開幕します。そこで注目したいのが、東京パラリンピックで金メダルを取った、車いすバドミントンの梶原大暉選手(22)です。

■人生が大きく変わった中学2年「気づいたらトラックの下に…」

 梶原選手は、強さを発揮するうえで大事にしていることがあります。

梶原選手
「絶対に妥協しない。何があっても諦めない。がむしゃらに泥臭くいくというのは、すごく大事にしています」 杭州アジアパラ 2022 この記事の写真

 梶原選手が戦う車いすクラスのシングルスで使うコートの広さは、通常の半分以下ですが、車いすを常に動かさなくてはいけません。

 そんなパラバドミントンで、今や絶対的な強さを誇る梶原選手。しかし、その強さは壮絶な過去を乗り越えて得たものでした。

 梶原選手の人生が大きく変わったのは、中学2年の時。当時の夢はプロ野球選手でした。強豪チームのエース候補として期待されていましたが、全国大会の前日のことでした。

梶原選手
「気づいたらトラックの下にいたっていうのは覚えています。両親が『次の日までもたないかもしれません』『覚悟しておいてください』みたいなことをお医者さんに言われたって言ってたので」

 練習に向かう途中、グラウンドの目の前で交通事故に遭いました。一命はとりとめたものの、右脚の太ももから下を切断せざるをえませんでした。

梶原選手
「まずは“野球ができなくなった”という。生きていくっていうより、野球ができないことが考えられなくて。頭が真っ白というか、『野球ができないのか…。野球できないの?』みたいな。絶望じゃないですけど」

 そんな絶望から、一体どのように前を向いていったのでしょうか?

梶原選手
「野球のチームメート、先輩、コーチ、監督がしょっちゅうお見舞いに来てくれて。『野球ができなくなって残念だったね』ではなく、『復帰したらこれをやろう』『復帰するの待ってるよ』とか、未来の話をしてくれたので、前向きになるきっかけになりました」

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■「チェアワークに一目惚れ」新たな道へ

■「チェアワークに一目惚れ」新たな道へ

 7カ月半にも及んだ入院生活。過酷なリハビリも前向きに励み、座ることさえできない状態から、徐々に歩けるところまで回復しました。

 スコアラーとしてチームに戻ることもできました。しかし、選手としての復帰は難しい現実。大きな葛藤があったといいます。

梶原選手
「野球に関わるか、スポーツをするか、すごく悩みました。元気にスポーツをしている姿を見せるのが、支えてもらった方々への恩返しになるかなと思って、スポーツするほうを選びました」 松岡修造さん
「なんでバドミントンになったんでしょう」 梶原選手
「自宅の近くの体育館でパラバドミントンチームが活動していて。最初はチェアワークに一目惚れして。『人間の動きなのか?これは』と衝撃を受けて、『これにしよう』と思った」

 こうして、梶原選手は夢だった野球に代わり、新たな道で輝くことを選びました。

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■国際大会121連勝中の梶原大暉 パリへ

■国際大会121連勝中の梶原大暉 パリへ

東京パラリンピック 梶原が金メダル

 競技を始めて4年。決意の強さを証明したのが、東京パラリンピックでした。

 元気に躍動する姿を、金メダルという最高の形で届けることができた瞬間でした。

 それからも梶原選手の勢いは止まらず、現在国際大会121連勝中です。

 連覇を狙うパリへ向けても、強い思いで挑みます。

松岡さん
「勝つことによって何を伝えたい?」 梶原選手
「諦めなかったら何かが起こる。周りの方のおかげで前を向いて諦めずに、今パラバドミントンに熱中できているのをすごく感じているところ。僕の姿を見た時に、一歩踏み出す勇気を持てるきっかけになる選手になりたいです」

(「報道ステーション」2024年8月19日放送分より)

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