夏の全国高等学校野球大会が、甲子園で行われている。球児たちのハツラツとしたプレーは見ている観客の心をつかんで離さない。しかし、かつて、白球への思いを募らせたまま、戦争で亡くなっていった若者たちがいる。その足跡を追った。

阪神甲子園球場

◆「戦没野球人」として散った伝説の選手たち

 戦没野球人という言葉がある。太平洋戦争などで亡くなった元球児のことを指し、その数は何千人とも何万人ともいわれている。  有名なのは海草中(現・和歌山県立向陽高)の嶋清一さんだろう。1939年の夏の甲子園。準決勝・決勝戦と2試合連続でノーヒットノーランを達成した伝説の投手だが、学徒動員で召集され、インドシナ沖で亡くなった。同様に京都商(現・京都先端科学大学付属高)の沢村栄治さん、松山商の景浦将さんらの名もよく聞く。

◆24歳で戦死した甲子園のスター投手・松井栄造さん

岐阜商で活躍した松井栄造さん

 だが、この人の名が口の端に上ることは少ない。岐阜商(現・県立岐阜商業)の松井栄造さん。春夏合わせて3度の優勝を誇る戦前の甲子園を代表する名投手である。  33年春、35年春、36年夏とチームを優勝に導いた左腕で、縦のカーブは「3尺(約90センチ)落ちる」と相手から恐れられた。岐阜商を卒業後、早稲田大、社会人野球を経て、42年に中国に出征した。  戦没学生の手記を綴(つづ)った「新版第二集 きけわだつみのこえ」(岩波文庫)に松井さんが日本に送った手紙の一文が載っている。「元気です。弾はバッティングと同じで、なかなかあたらないものです。この弾だけはあたってもらっては困りますが…」。野球に例えて気丈に記した文面が切ない。松井さんはこの後、43年5月28日に頭部に銃弾を受けて亡くなった。24歳という若さだった。

◆小説で描かれた松井さんの姿は…

 実は2021年から東京新聞で連載された朝刊小説「かたばみ」に出てくる野球青年・神代清一のモデルとなったのが松井さんだった。主人公・悌子(ていこ)が好意を寄せる幼なじみで、野球の才能に恵まれながら、戦争で命を落としてしまう。作者の木内昇(のぼり)さん(57)にどうして松井さんを描こうと思ったのかを聞いた。  「投手として活躍したのはもちろんですが、後輩たちにとにかく慕われていたと聞き、人間的にもできた人だったのではないかと感じたことが大きいです」  悌子の憧れの人として描かれた一方、清一の死は淡々と記されるにとどまった。なぜ、悲劇のヒーローとして描かなかったのか。  「彼らが本来、『兵士』ではないという部分を強調したいと思ったからです。やりたいことや夢があった、そういう個々人を『お国のために命をささげた兵士』として、十把ひとからげにしてしまうことに抵抗がありました」  戦死した人を安易に英雄にはしない。戦争を美化しない。木内さんにとって清一=松井さんは、ありのままの戦争を伝えるために必要な人物だった。なお、清一という名は、同じく戦没野球人の嶋清一さんから付けたという。

◆開場100年の甲子園に刻まれる「無念」の歴史

1936年、夏の甲子園で優勝した岐阜商メンバー。右から2人目が松井栄造さん=早稲田大学歴史館提供

 36年夏に岐阜商が優勝した際の写真が残っていた。だが、ここに写る14人の部員のうち、松井さんを含めた5人が戦死している。  ああ、これが戦争の現実だ。  もし、彼らが生きていたら―。そう嘆かずにはいられないが、木内さんは前を向く。「こうして亡くなった人の活躍が資料として残っていることが大事な気がします」  松井さんは、例えるなら松坂大輔さんや斎藤佑樹さんのような甲子園のスター選手だった。にもかかわらず、多くの人が忘れているのは、時が過ぎ、当時を語る人がいなくなったから。過去の出来事を伝え、風化させていかないことが大切なのだと、あらためて知った。  今年開場100年を迎えた甲子園。メモリアルを寿(ことほ)ぐ気持ちを否定するつもりはないが、どうか、忘れないでほしい。かつて、このグラウンドで泣いたり、笑ったりした思い出を胸に、戦地に散っていった球児たちがいたことを。  今年もまた8月15日がやってきた。79回目の終戦記念日である。 【次ページ】小説「かばたみ」著者・木内昇さんインタビュー詳報 に続く 前のページ
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