9度目の優勝を決め賜杯を手に満面の笑みを浮かべる横綱・曙=両国国技館で1997年5月25日

 若乃花、貴乃花の兄弟横綱のライバルとして、1990年代の大相撲人気の一翼を担った元横綱の曙太郎さんが54歳の若さで亡くなった。外国出身力士として初めて横綱に上り詰め、通算11回の幕内優勝を遂げた。引退後は格闘技の世界へ。身長203センチ、体重200キロ超の大きな体で戦い抜いた人生だった。

 同じ米国ハワイ出身で当時東関親方だった元関脇・高見山にスカウトされ、同州の大学を中退して角界入りし、若・貴とともに88年3月の春場所で初土俵を踏んだ。バスケットボールで鍛えた大きな体を生かしたもろ手突きからの押しは圧倒的で、瞬く間に番付を駆け上がった。

 新十両、新入幕ともに若乃花と同じだったが、貴乃花には先を越され、「早く追いつきたいという気持ちが、いつもあった」。

 幕内初優勝も貴乃花に遅れること2場所の92年5月の夏場所だったが、場所後に先んじて大関に昇進。2場所連続優勝を果たした93年1月の初場所後、若・貴よりも早く横綱となった。同じハワイから約6年早く角界入りし、外国出身力士初の大関になった小錦を超える快挙だった。

 同年7月の名古屋場所は若貴兄弟とのともえ戦の優勝決定戦になり、2人を圧倒して優勝。館内に響く若貴ファンの悲鳴をよそに、パワー相撲の真骨頂を見せつけた。ここから3場所連続優勝を遂げた頃が最盛期だった。

 ただ、巨体を支える膝への負担は大きく、2000年11月の九州場所で通算11回目の幕内優勝を果たしながら、続く01年1月の初場所は全休し、千秋楽翌日に突如引退を発表した。「外国人とか日本人とかではなく、日本相撲協会の一員としてやってきた。横綱になれて感謝の気持ちでいっぱい」と話した。

 年寄名跡を取得せず、引退後はしこ名のまま記者クラブ担当として公式記録や各段優勝者略歴を作る職務に当たった。記者への口癖は「兄弟子、ごっつぁんです」。偉ぶることなく、流ちょうな日本語で冗談も飛ばした。

 03年1月の初場所後に同じ高砂一門の朝青龍が横綱になると、横綱土俵入りを指導した。東関部屋付き親方としては高見盛(現東関親方)に徹底して稽古(けいこ)をつけて三役に導いた。東関親方は「自分の気づかない細やかな指導で番付を上げられた」と語る。

 だが、03年11月に突如として協会を退職し格闘技の世界に入った。「師匠と弟子の関係が続き、自由に意見が言えない」といったジレンマも抱えていたようだ。格闘技では、どこにも所属しない「無頼派」として活動した。

 相撲界を去る際、こう言った。「自分一人で行動して、成功も失敗も全部、自分のせいにできる方がいい」。17年4月には体調不良を訴えて緊急搬送された。その後は懸命のリハビリにも励んだ。信条を貫いて波乱の一生を全うした。【飯山太郎、上鵜瀬浄】

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