フェンシング男子フルーレ団体決勝に勝利し喜び合う(右から)永野雄大、松山恭助、敷根崇裕=グランパレで2024年8月4日、長澤凜太郎撮影

 パリ・オリンピックのフェンシングは4日で全日程を終了し、日本は計5個(金2、銀1、銅2)のメダルを獲得。大会前は通算3個にとどまっていたが、1大会で一気に上回る大躍進を遂げた。

 日本のフェンシング関係者も口々に驚いたほどの活躍を見せた今大会。個人では男子エペの加納虹輝選手(JAL)が同種目初の金メダルを手にし、団体では出場全種目でメダルを獲得し、男子フルーレが金、男子エペが銀、女子フルーレと女子サーブルが銅だった。

 メダル獲得順位ではフランスやイタリアといった伝統国にひけを取らない結果となった。要因の一つは地道に進めてきた各種目の「国際水準化」だ。

 有効面が胴体のみのフルーレは小柄な体格の日本選手でも強豪国と渡り合えるというのが定説で、国内では「花形」とされてきた。一時はフルーレ選手のみが特別強化選手に指定され、エペ、サーブルは“冷遇”されたこともある。強豪国と渡り合うために育成手腕に定評のあったウクライナ人のオレグ・マツェイチュク氏(2021年まで指導)を招いてフルーレに特化した強化を進め、07年世界選手権女子団体の銅メダルや、08年北京五輪男子個人の太田雄貴さん(38)、12年ロンドン五輪男子団体の銀メダルなどにつなげた。

 一方で、08年に同じくウクライナ出身のオレクサンドル・ゴルバチュク氏がエペのコーチに就任するなど、他種目でも徐々に向上を図った。

フェンシング男子フルーレ団体決勝、最終試合で優勝を決め両手を広げる飯村一輝=グランパレで2024年8月4日、長澤凜太郎撮影

 さらに13年に東京五輪の開催が決まったことで、日本協会も本腰を入れて全種目でメダルを狙えるよう方針を転換。16年リオデジャネイロ五輪男子エペで見延和靖(ネクサス)が種目初入賞を果たすなど、世界的に「不利」とみられてきた種目でも成果を残し始め、東京五輪ではエペ団体で日本フェンシング初の金メダルに輝いた。

 日本チームを率いる青木雄介監督は「エペがとったことで、自分たちもできる、と他種目への相乗効果が生まれたことも大きかった」と分析する。

 フェンシング強豪国からのコーチ就任は、技術面の伝授だけでなく「人脈」という利点を併せ持つ。ある協会関係者は「他国との戦術の流行に関する情報交換や海外の強豪選手との合同練習など、普段から世界トップクラスと戦える環境作りができるようになった。それによって、選手たちも一昔前のように強豪国選手と対戦しても気後れすることもなくなり、力をより発揮できるようになった」と話す。

 今大会、同行している外国人コーチは3種目で計4人。フルーレで女子史上初のメダルをもたらしたフランク・ボアダン氏をはじめ、各コーチのやり方で世界トップと渡り合う「勝者のメンタリティー」もたたき込んできた。男子フルーレの松山恭助選手(JTB)は「自分たちに自信を植え付けてくれた」と効果を口にする。

 個人で金メダルを決めた加納選手が「認めてもらわないと困りますね」と言ったように、競技発祥国の一つとされるフランスでも日本選手の勝利後には惜しみない拍手が何度も送られた。グランパレという歴史ある会場で日の丸を背負った剣士たちは強豪国として鮮烈な印象を残し、28年ロサンゼルス五輪に希望をつないだ。【パリ倉沢仁志】

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