83年にドラフト3位でヤクルトに捕手として入団した橋上秀樹さん。

現在は、オイシックス新潟アルビレックス・ベースボール・クラブの監督を務めている。

橋上さんが現役時代に一時代を築いたのが、古田敦也さんだ。

著書『だから、野球は難しい』(扶桑社)から、古田さんが捕手として優れていた点、そして「打撃のコツ」をつかんだ瞬間について、一部抜粋・再編集して紹介する。

「死球を当てても報復を恐れない」

私が現役のころに、一時代を築いたのが古田敦也だ。彼が優れていた点はいくつもある。

もちろんインサイドワークは上手かったし、強肩で打撃もクリーンナップを打つほど高いレベルにあった。無論、大きな負傷や病気をすることもない「丈夫な体」を持っていたことも一因として挙げられるだろう。

それ以上によかったのは、「万が一、相手チームに死球を当てても報復を恐れない」という点、これに尽きる。

たとえば相手チームの主軸に対して内角攻めを敢行したとする。このとき投手によっては、相手の主軸打者の懐や腕などに死球を当ててしまうことも考えられる。

古田敦也は報復を恐れずに内角を狙い続けた(画像:イメージ)
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こんなケースにおいて、「相手ベンチから故意に当てたと思われて、自分が報復されたらどうしよう」と心配してしまう捕手もいる。

このような思考だと、「内角は避けよう」という考えに陥り、外角中心の無難な配球になりがちになってしまう。

結果、リードが単調になってしまい、肝心な場面で相手打線から狙い撃ちされ、痛打を食らってしまうことだって十分にあり得る。

けれども古田は違った。いかなる場面であろうと、味方の投手に対して内角へ投げることを怖がらなかった。

怒声が聞こえても内角に要求

万が一、相手チームの主軸に当ててしまっても、「しゃーない」と思っていたし、古田本人に「報復されるとか考えないのか?」と聞いたときには、「当てられる覚悟を承知の上で内角勝負しているんだ。

内角を突かないと、相手打者に踏み込まれて打たれてしまうんだから、これは仕方のないことなんだ。

万が一、ウチの投手が当てちゃったら、そのときは『すみません』って謝ればいいんだし、その後オレが打席に立って内角を攻められて当てられたとしても、それでもオレはウチの投手たちには内角を要求し続けるよ」と、平然と言っていたものだ。

古田の全盛期だった90年代と言えば、ナゴヤ球場や広島市民球場と、今のバンテリンドームやマツダスタジアムと比較しても狭い球場で試合をしていたこともあって、相手打者の内角攻めは必要不可欠だった。

また、当時は星野仙一さんが中日の監督を長く務めていたのだが、当時4番を打っていた落合博満さんの内角を突こうものなら、

「おい! 当てたらどうなるかわかっているんだろうな!」
「内角ばかり攻めてんじゃないぞ、コラッ!」

などと、中日ベンチから星野さんの怒声が聞こえてきたものだ。

それでも古田はどこ吹く風とばかりに、落合さんに対しても平気で内角にボールを要求していた。

それで乱闘に発展することもあったが、そんなことが一度や二度あっても、「内角を投げさせることの重要性」を古田は大事にし続けていた。

90年代のヤクルトは、4度のリーグ優勝と3度の日本一に輝く黄金時代を築いたが、その背景には、古田の「報復を恐れないリード」があることも見逃せないと私は見ている。

限界を突破していくと高いレベルに達する

練習をやらせすぎると、「パワハラだ」と世間から非難の対象になることもある。しかし、ある程度きつい練習をこなさなければ、上の段階には到達しない。これもまた事実である。

そのプロセスの途中で、「練習をやらせすぎだ」と言ってしまうのは、選手の成長を阻害することにさえなりかねない。

「もうここが限界だ」と思う地点があったとしても、必死になってがむしゃらに突き破っていく。すると、また限界がやってくる。

そうしたことを三度、四度、五度と繰り返し突破していくと、気づけば高いレベルに到達しているというわけだ。

技術を突き詰めると理論だけでは解決できない問題に当たる(画像:イメージ)

野球における技術を磨いていくとき、最初は必ず理論がある。そのことは知らないよりも知っておいたほうが断然にいい。

ところが、実際に技術を突き詰めていくと、必ず理論だけでは解決できない問題にぶち当たる。

これは当然のことである。頭でわかっているつもりでも、体が頭と同じように理解できるわけではないからだ。

そこで「どうやったら自分の体に技術をしみ込ませることができるか」というレベルに入っていく。

ああでもない、こうでもないと試行錯誤を繰り返した末に、体が無意識に理論通りの反応を示すことができたとき、初めて「コツをつかんだ」ということになる。

古田が「つかんだ」瞬間

1990年の秋季キャンプで、ヤクルトの現役選手だった私は古田敦也と隣同士でティー打撃を行っていた。

私は黙々とバットを振っていたが、古田は一球一球あれこれ考えながらバットを振っているように見えた。

首をかしげるしぐさをしたと思ったら、うんうんとうなずいて納得した表情をすることもあり、私には古田が何かを考えながら練習をしているように見えた。

数日が経ち、夜間練習のエアテントのなかで古田と隣同士でティー打撃を行っていたとき、突然古田が、「あっ、つかんだ!」と大きな声を上げた。

私はいったい何をつかんだんだろうと思って古田の顔を見ると、晴れやかな表情をしていた。

「『つかんだ』ってなんのことだ?」、私が古田にそう聞くと、「バットがスムーズに出てくる感覚をつかむことができたんだ」

そううれしそうに話している。

当時の私は「そうだったのか」という程度にしか思えなかったのだが、翌1991年のシーズンに入ると、古田は落合博満さんとシーズン終盤まで首位打者争いを繰り広げ、最後はとうとう古田が打率3割4分で首位打者のタイトルを獲得。

捕手としては野村克也さん以来史上2人目、セ・リーグでは史上初という快挙だった。

その後も古田はヤクルトの4番を打つまでに成長し、2005年4月には大学・社会人経由でプロ入りした捕手として史上初めて2000安打を達成するまでの選手となった。

『だから、野球は難しい』(扶桑社)

橋上秀樹
元プロ野球選手。ヤクルトに入団後、日本ハム、阪神と渡り歩き2000年に引退。その後、コーチなどを務め、2021年から新潟アルビレックス・ベースボール・クラブの監督

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