奈良文化財研究所は12日、民間の開発に伴う西大寺(奈良市)の旧境内発掘調査で、寺の中核をなす金堂院の内側中心部近くで灯籠(とうろう)があったとみられる痕跡が見つかったと発表した。巨大な灯籠はこうした古代寺院では格式を表すものだったと考えられ、奈良時代の創建当時、平城京有数の大寺院だったと伝わる西大寺の往事の姿に迫る発見と言える。
西大寺は765年、聖武天皇の娘の称徳天皇(孝謙天皇)が、東大寺に相対する形で造立。回廊に囲まれた金堂院(東西97メートル、南北116メートル)の中には中央部に薬師金堂(東西36メートル、南北17メートル)、通常は講堂を配置する北端部に2階建ての弥勒金堂(東西32メートル、南北20メートル)があり、いずれも多数の仏像が置かれていたとされる。だが平安時代に没落し、金堂院も12世紀初頭までに失われたとみられる。
今回は弥勒金堂南側の内庭と金堂院を囲む回廊の西面を発掘調査。内庭では弥勒金堂から南約15メートルの位置で、ロの字状に組み合わされていたとみられる四角いレンガ板6点や板があった痕跡などが見つかった。囲まれた2・3メートル四方の区画の中央で深さ約80センチの穴も見つかったことから、ここに灯籠が建っていたと推定できるという。
また西面の回廊では、3・6メートルの間隔で3列に並んだ柱の礎石用の穴を計18基確認。回廊中央部の壁で内外を隔てる複廊形式だったとみられ、東西の端に雨水を集めるための溝も見つかった。既に概要が判明している東面回廊と左右対称に作られていたという。
現地を確認した上原眞人・京都大名誉教授(考古学)は「灯籠は金属と石、木材など素材で格式が違う。東大寺には格の最も高い金属製灯籠が残るが、今回の遺構から石灯籠を示す遺物は出ておらず、東大寺に匹敵する金属の灯籠を建てた可能性もある。東大寺に対抗して建てられた経緯からみると納得できる」と話した。【稲生陽】
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