「平和像」に献花した磯田市長(右端)ら=新潟県長岡市本町3の平和の森公園で2024年8月1日、内藤陽撮影

 長岡空襲から79年を迎えた1日、新潟県長岡市各所で慰霊・追悼行事があり、市内は終日、鎮魂と平和への祈りに包まれた。「平和は無料ではない。平和にただ乗りするのではなく自分たちでつくっていきたい」。平和学習に取り組む中学生たちは未来に向けて誓った。【内藤陽】

 平和の森公園(同市本町3)で開かれた平和祈願祭には、市内16校の小中学生約190人が参加。空襲の犠牲者には約280人のいたいけな命も含まれている。参加した子どもたちは同公園のシンボル「平和像」に白菊や折り鶴を供え、市立南中の生徒代表が平和学習の成果を発表した。広島市で6日に開かれる平和祈念式典へ派遣される中学生の一人、市立大島中3年の柳瑠菜さん(15)は「知らなかった真珠湾攻撃について勉強になった。平和の大切さは大人になっても忘れない」。

長岡空襲の体験談を語る池田さん=新潟県長岡市大手通1のアオーレ長岡で2024年8月1日、内藤陽撮影

 アオーレ長岡(同市大手通1)では、空襲の犠牲者1488人と同市出身の日中戦争・太平洋戦争の犠牲者8996人を慰霊する平和祈念式典があった。磯田達伸市長は参加者約780人に「世界では戦火が絶えず今も罪のない尊い命が失われている。戦争はいけないと訴え続けることが大きな犠牲を強いられた長岡の使命だ。多くの若者が歴史を正しく学び行動を起こすことで未来は変わると確信し、そのためにたゆまぬ努力を続けていく」と訴えた。

兄姉失った91歳

 「戦争が終わっても、うれしくもさみしくもなく空虚な……」。空襲当時12歳で、千手国民学校6年だった池田ミヤ子さん(91)が体験談を語った。4人きょうだいの末っ子の三女。出征した兄のほか、空襲で最年長の姉を失った。焼夷(しょうい)弾で同市宮原の自宅に着火。「お父さんお母さん、火を消しましょう。あんたたちは防空壕に入ってなさい」。姉に言われ、父親が休日に掘った深さ1メートル程度の穴の中に2番目の姉と避難。畳を2枚かぶせられ、飛び交う声で外の様子をうかがった。外に出ると、母親が倒れた姉の両手を引っ張って名前を呼び続けていた。姉は顔に傷一つなく即死状態だった。姉に布団を掛け、家族4人で避難。「母はどんな気持ちで姉の手を離したか。今にして私は……」。その後、母親は当時の話は一言もしなかったという。父親は警察に死亡届を出したが、空襲で火葬場は稼働せず。「姉ちゃんを処理するから」。そう言われ、避難先で待たされたことを振り返った。「戦争は罪のない人たちが命を失い、これほどむごいことはないですね」

 夜には柿川で灯籠(とうろう)流しが行われ、信濃川河川敷では空襲の始まった午後10時半に合わせ、慰霊の花火「白菊」を打ち上げ、各寺院では梵鐘を打ち鳴らし、鎮魂の祈りをささげる。

長岡空襲

 1945年8月1日午後10時30分から約1時間40分にわたり、米軍機125機が約16万3000発(925トン)の焼夷(しょうい)弾を長岡市中心部に投下した県内唯一の大規模空襲。1488人が犠牲となり、約1万2000戸が焼失。市街地の8割が焼け野原となった。同市は1984年8月1日に「非核平和都市」を宣言。2015年には同日を「長岡市恒久平和の日」とする条例を制定した。

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