自身の体験がもとになった朗読劇の練習を見る福沢信子さん=福岡市東区で2024年6月11日午後1時43分、田崎春菜撮影
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 「よく見ておきなさい」。あの日、身を寄せた防空壕(ごう)のそばで、母は空襲の戦火を見ながら3人の娘たちにしきりに言った。当時4歳だった末娘の福沢信子さん(83)=福岡市東区=は、母の言葉の真意を考え続けてきた。福沢さんの体験手記をもとに、地元の市民グループは朗読劇の上演を重ねる。市中心部で1000人以上の死者・行方不明者を出した福岡大空襲から19日で79年――。

 「警戒警報発令、みんな防空壕に入れ」「えずかあ(怖い)」「火の玉が空からいっぱい降ってくる」。福岡市内であった朗読劇「十五銀行から逃れた信子」の練習。地元公民館を拠点に活動する「香椎ふれあいサロン朗読劇ボランティア」(21人)のメンバーが防空頭巾や戦闘帽をかぶって本番さながらの熱演を見せた。

 「ウー、ウー」。1945年6月19日夜、福沢さんが住んでいた同市下厨子町(現同市博多区)に警戒警報が鳴り響いた。防空頭巾をかぶらされ、風呂敷に包んだ先祖の位牌(いはい)を背負わされた。母トミエさんと2人の姉と共に自宅の床下の防空壕に隠れた。

福沢信子さんの福岡大空襲の体験をもとにした朗読劇を熱演する「香椎ふれあいサロン朗読劇ボランティア」のメンバー=福岡市東区で2024年6月11日午後1時37分、田崎春菜撮影
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 外の慌ただしい様子を感じる中、母は娘3人を防空壕から出すと「よく見ておきなさい。しっかり覚えておきなさい」と繰り返した。福沢さんが母にしがみつきながら夜空を見上げると、探照灯の明かりが走り「×」や「V」のような形を作っていた。

 「ドカーン」「ドーン」と高射砲の音が地響きとともに聞こえた。続けてB29爆撃機が低飛行するさまは、漆黒の空に大きなカラスが羽を広げて飛ぶように見えた。初めて目にする光景に圧倒された。

 そんな中、1軒隣の倉庫に焼夷(しょうい)弾が落ちた。ガラス食器などが収められた倉庫はすさまじい音を立て、火に包まれた。

 母娘の4人は家を飛び出し、火の海となった街を逃げた。安全とされていた旧十五銀行(同市博多区、現在の博多座付近)の地下室に入ったが、「人、人、人の満員状態」でさらに避難者が押し寄せた。身動きもできない状態に母は「外に出よう」と決断。結局、どの建物も入れず、旧博多駅(同区)に止まっていた貨車の下に隠れて一夜を過ごした。家は戦火に消えたが、家族は無事だった。一方で、銀行の地下室では炎熱の中で63人が犠牲になったことを後に知った。

 背負っていた位牌は現在、福沢さんの自宅に置かれ、「生前、母は『(福沢さんが)仏様を背負っていたから守ってくださった』と言って位牌に手を合わせていた。朝晩、お経をあげるたびに戦争の激動の中を支え合った記憶がよみがえる」と振り返る。

 2018年、地元の朗読劇グループと知り合ったのをきっかけに、福沢さんは体験を手記にしたためた。「忘れたいと思いよったけど、書き出したら泉のごとく出てきた」と福沢さん。「母が空襲中に危険もかえりみずにあの光景を見せたのは、二度とこんなことが起こったらいかんというのを肌で伝えたかったんやろう」と思いをはせる。

 朗読劇グループは手記をシナリオにし、19年から市内の小中学校などで公演している。グループのメンバー、麻生貴美子さん(78)は「私たちが暮らす福岡でこんなに大変なことがあったのだと想像してもらいたい」と話す。

 世界では、パレスチナ自治区ガザ地区などで子どもたちが犠牲となる戦禍が今なお続く。「きっとこの子たちも一生忘れん記憶として刻まれるっちゃろうね(刻まれるのだろう)」。戦地の子どもたちの映像に胸を痛めながら、福沢さんはこう願っている。「もうこんな思いをする子を出さない世の中にしてほしい」【田崎春菜】

福岡大空襲

 1945年6月19日夜~翌20日未明、米軍のB29爆撃機221機が飛来。福岡市中心部に焼夷弾を投下した。死者・行方不明者は1146人にのぼり、焼失家屋は1万戸を超えた。

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