奈良文化財研究所(奈良市)は7日、平城遷都(710年)に伴って造られ、室町~戦国時代に失われたとされる薬師寺(同市西ノ京町)の回廊部分について、創建時の柱穴や基壇の遺構を良好な状態で発見したと発表した。回廊は屋根の中心部分に沿って設けた壁で内外を隔てる幅約6メートルの「複廊形式」と考えられており、今回の発掘で、東西南北の長さがわずかに違う正方形に近い形で金堂や東西の塔を囲んでいた全貌を明らかにできたという。
薬師寺は飛鳥時代に天武天皇が皇后のために藤原京(橿原市)に建てさせた寺が発祥。その後、平城遷都に伴い、現在の場所に新設された。北の講堂と南の中門を回廊でつなぎ、金堂と東西の塔を囲む建物配置で知られる。世界遺産「古都奈良の文化財」にも含まれる。
回廊は1968年から始まったこれまでの発掘調査で、中心部分に柱や壁がない「単廊」として建設が始まり、工事途中で複廊に変更されたと推定されている。今回は西北角を調べ、礎石を据え付けた穴14基や廊下の中心部分の壁を支えていた石などを発見。回廊の周囲では、基壇の側面と地面を覆う石や、屋根から雨水を流す溝の敷石の一部が当時のままの形で見つかった。
柱穴はいずれも回廊がL字形に折れ曲がる角に沿った形で見つかっており、奈文研はこれまでの結果も合わせ西面約115メートル▽東面約113メートル▽南面約123メートル▽北面約124メートル--の正方形に近い長方形の回廊だったと結論。四隅の礎石の位置から、東西南北で柱の本数が異なるとしていた「薬師寺縁起」(11世紀)の記述が裏付けられたとした。回廊の基礎の基壇の高さは約36センチ、幅は約9・4メートルと推定した。
さらに回廊の北側では、現在の位置とは講堂(大講堂)をはさんで正反対の西側にあった鐘楼の基壇遺構も発掘。各方向に幅約4・1メートルの階段を持つ東西約15・7メートル、南北約18・8メートルの立派な基壇上に建っていたと推定できるという。担当した奈文研の和田一之輔・考古第一研究室長は「東西南北で回廊の長さが違うのは同時期では他に例がない。目的は不明だが、当時の測量技術の高さから見て、意図的にずらしたのでは」と話している。
奈文研は9日午前11時~午後3時、一般向けの現地見学会を開く。申し込み不要で参加無料だが、別途拝観料が必要。問い合わせは奈文研(0742・30・6733)へ。【稲生陽】
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