東洋独自の花鳥画を追究した日本画家で文化勲章受章者の上村淳之(うえむら・あつし、本名・淳=あつし)さんが1日、老衰のため死去した。91歳。
永遠に「到達点」がない絵画芸術の世界で、上村さんは生涯を通して高みを目指した。
祖母・松園に可愛がられ、松園が描く様子を画室のガラス越しに飽かず眺めた。自然と絵画に関心が向いたが、最初の大学受験では建築を志す。転機は東京での浪人時代。ある日、下宿先で洋画家・小磯良平の素描に魅せられた。「やっぱり絵はええなあ」。京都に戻り、美術大を受験した。
父・松篁と母の猛反対を押し切って進んだ日本画の道。「苦労と思わなかったし、3代目なんて意識していません」と常々言っていた。同時に「世間さまはそうは思わないでしょう」と現実を受け入れ、厳しい目にさらされてきたことをやんわり語ったことも。重圧に負けなかったのは、ひとえに「花鳥画を究める」という大テーマがあったから。真摯(しんし)に写生に取り組み続けた。
多い時には1500羽以上の鳥を飼っていたが、本物そっくりに描くことを重視したのではない。深遠でりんとした雰囲気がみなぎる作品世界には、地球上の生き物は自然に生かされている、という淳之さんの思いが反映されていた。「己の思いを鳥に託す」ことをとことん追究した。
創作と同時に力を注いだのは、京都・奈良の文化継承と、後進の指導だ。文化勲章受章決定時の取材会で「昔に戻れたら? 学生たちに『飲みに行こか』と言いたいな」としみじみ語ったのを、なぜか今思い出す。テクニックの伝授ではなく、生き様全体で文化の重みを若い世代に伝えようとしたのだろう。それが、淳之さんが祖母と父から受け取ったことなのかもしれない。【岸桂子】
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