2019年、86歳のときにトライアスロン・オリンピック・ディスタンスで優勝(写真:稲田弘さん提供)

<スイム3.8km、バイク180km、ラン42.2km――総距離226kmの鉄人レースを完走する、世界チャンピオンで91歳の現役トライアスリート・稲田弘さん。その驚異の肉体を支える食事ポリシーとは?>

早朝6時。千葉県千葉市稲毛区のトライアスロンクラブのプールに飛び込み、1時間半かけて3500mを泳ぎ切る。

稲田弘さん、91歳。

世界最高齢の現役トライアスロン選手にして、世界最高齢のアイアンマン世界選手権完走者のギネス世界記録™を持つ、文字通りの鉄人である。

アイアンマンレースとはトライアスロン競技の最高峰といわれ、スイム3.8km・バイク180km・ラン42.2kmの総距離226kmを、16〜17時間の制限時間内に走破する世界一過酷なレースだ。

【きっかけは「定年後のメタボ解消」】

2024年、オーストラリア・ケアンズで行われたトライアスロンの大会に参加した。積極的に海外遠征をしている(撮影:山本淳一)

稲田さんは70歳から始めたトライアスロンを経て、79歳から9年連続でアイアンマンレース世界選手権に出場。そして80歳と83歳(80-84歳カテゴリー)、85歳(85-89歳カテゴリー)のときには世界チャンピオンに輝いた。

特に85歳では新カテゴリー初の世界チャンピオンとなり、同時に自身が持つギネス世界記録「アイアンマン世界選手権の世界最高齢完走記録」も更新する。

「80代前半は体力的に絶好調。80歳の初優勝のときは早くゴールしすぎて、フィニッシュゲートに観客が誰もいなくてね(笑)。最後までスピードも維持できて、余裕のゴールでした」

飄々と語る稲田さんだが、90代に突入した現在も週6日のトレーニングは欠かさず、ベスト体重を維持。血圧は正常、老眼鏡不要の裸眼で新聞を読み、聴覚を意識するためにテレビの音量は低めに設定しているという。

「骨折は多いけど、病気とは無縁」とサラリと話すので驚く。補足すると、骨折の原因は高齢者に多い室内での転倒ではなく、バイクからの落車など、ハードなトレーニングによるものだ。

「若い頃から取り立ててスポーツマンというわけではなかった」という稲田さんが、トライアスロンにはまっていくきっかけになったのは、60歳で始めた水泳だった。

その頃、難病を患って自宅療養する妻の介護をするため、記者として活躍したNHKを定年退職。メタボ解消と健康維持を目的に自宅そばのスポーツジムのプールに通い始めたのである。

「60歳で若かったから結構速く泳げるようになって、体も締まってきた」と手ごたえを感じた稲田さんは、水泳仲間とスイム1.5km・ラン10kmのアクアスロン大会に出場し、完走する。

そこでロードバイクで颯爽と会場入りする選手の姿に「かっこいいなあ!」と憧れて、69歳のときにロードバイクを購入した。記者時代から探究心旺盛、ピンときたものにはすぐ飛びつくという稲田さん。これが70歳のトライアスロンデビューにつながった。

メタボ解消の水泳から10年。さらにその先の10年後に、アイアンマンレースの世界チャンピオンになるなど、想像すらしなかった。

【なぜ、そこまで自分を追い込むのか?】

9年連続の世界選手権出場、3度の優勝という圧巻の戦績も、稲田さんに言わせれば「完走を勝利としたら3勝6敗」。6敗はタイムオーバーなど無念のリタイアだ。

次にめざす勝利は、90歳代以上のカテゴリーでアイアンマン世界選手権完走である。そのために筋肉と骨を維持する毎日のトレーニングも欠かさない。

1週間のうち月・水・金は、所属するトライアスロンクラブのチームトレーニングに参加する。早朝4時半起きで自宅を出て、水だけ飲んで朝食抜きのままクラブのプールで6時から7時半まで3500mを泳ぐ。自宅に戻り、朝食を済ませてからバイク練習へ。

自主練習の火・木は朝8時にラン10km。夕方5時からスポーツジムのプールで2000m泳ぐ。土曜日は本番のレースと同じ順番でスイム、バイク、ラン。日曜も休まずにバイクとランをこなす。

これが基本の練習メニューだが、バイクの練習では地図を見ながら初めての土地を走ったりすることもある。

「バイクを100km以上走る日は、自宅を出発して帰ってくるまで5時間以上かかるんです。僕はペースが遅いし、途中で好物の鰻を食べるために寄り道したりもするからね(笑)」

雨の日はランとスリップする危険があるバイクは中止。ランの代わりに傘をさしてウォーキングをする。「のんびりできない性格」に加えて、「雨だから休養」という発想もないのだ。

クラブ合宿は、さらにハードだ。バイクの練習では180kmという長距離を走る。稲田さんは学生からオリンピック選手までさまざまなトライアスリートと一緒に、雨や風や雪などの天候に関係なく、ランやバイクの練習をこなさなければいけない。

「悪天候の日はそれに適応した走り方をすることがトレーニングになるんだけれど、真冬の雨や雪の日は寒くて寒くてどうしようもない。足はつりまくるし、ただただつらいです」

老後はゆっくり暮らしていきたいという人も多いだろう。ここまで自分を追い込むのは、それだけ得られるものや達成感があるからなのだろうか。

稲田さんは「そんなの、ないよ」と即答する。

「練習がハード過ぎて、走り終わったあとは『やっとこれで寝られる』としか思わない。でも、僕にはこれしかやることがないからね」

【91歳の超人的な肉体を作る「驚きのメニュー」】

トライアスロンを始めて3カ月後、最愛の妻を看取った。稲田さんが70歳のときだ。それから、より深くトライアスロンに没入していく。理由は2つ。

「結局それしかやることがないということと、トライアスロン自体が楽しいことだったから」

当時は70代でトライアスロンの大会に出場する人は誰もいなかったという。だから大会側が稲田さんのために「高齢者賞」や「特別賞」などを設け、トロフィーも授与された。年下の選手たちに讃えられ、大会で再会する仲間も増えていった。

稲田さんは、妻が亡くなって以降、ずっと一人暮らしをしている。孤独とも違うが、趣味の合う妻と山登りや旅行を楽しむ時間がなくなり、今は目の前のことに打ち込むことで日々を充実させている。

もちろん、持ち前の探究心が「自分がどこまでいけるのか」を突き詰めるに至ったということもあるだろう。それが顕著に出ているのが、毎日自分で作っている食事だ。

トライアスリートはレースで使う体力に見合っただけの栄養を取らないといけないーー。これが稲田さんの確固たる食事のポリシーとなっている。

70歳でトライアスロンデビューをしたときに、周囲の人たちに栄養効果がある食べ方や体にいい食材を教えてもらったり、トップアスリートの食生活を指導する管理栄養士に相談したりしながら、いろいろと研究して自分なりの献立を確立した。

以来、現在まで20年以上、ほぼ同じものを毎日食べている。基本は抗酸化作用のある緑黄色野菜をたくさん摂ること。

朝は鍋を2つ使って、2種類のスープを作る。1つは栄養価が高い旬のものを中心に11種類以上の野菜だけを使ったもの。もう1つは野菜の種類を半分にして、豚肉や鶏肉、にんにく、貝類、山芋やジャガイモなどのイモ類にエリンギやしいたけなどを入れたもの。

稲田さんが毎日食べているスープ。具材の種類、量ともにかなりのもの(撮影:風間仁一郎)

それぞれ鶏ガラスープやチキンコンソメなどで味付けを変えて、黒酢やトマトジュース、代謝アップや血行促進などの効用や効果があるというスパイスを加える。さらに食べるときに味変ですりごまをふりかけることも。

最近凝っているのは、医師に勧められた鯖缶だという。缶汁ごと鍋に入れて出汁がわりに使っている。

【「無理はしていない」】

朝食は、この食べるスープに加えて、蜂蜜とブルーベリージャムをたっぷり塗ったライ麦パン、豆乳も並ぶ。アイアンマンレースに出場したツール・ド・フランスのサイクリストがレース前に大量に蜂蜜を摂取すると知り、バターをやめて蜂蜜にした。

トーストには蜂蜜とジャムがたっぷり(撮影:風間仁一郎)

この朝食を作って食べるだけで2時間かかる。

「これがいいよ、あれもいいよと聞くたびに具材が増えていくので、ものすごい量になるんです。自分で作っておきながら、見ただけでうんざりする。しかも僕は昔から朝が弱くてなかなか起きられない。だからとにかく朝は恐怖なんです(笑)」

昼食は外でトレーニングする合間にコンビニなどで食べるが、疲労回復に効くビタミンB1が豊富な豚肉の弁当を選ぶなど気を使っている。これもクラブ仲間の女性が豚肉たっぷりの弁当を作ってくるので、「それなら僕も」と、取り入れた。

そして、夕食。玄米ご飯を茶碗2杯にキムチ納豆、生卵、DHAが豊富なめざしなどの青魚。味噌汁も具材たっぷり。豆腐、麩、エビ、貝類、ワカメ、そして旬の野菜に山芋をすりおろして加える。

冷蔵庫にストックしている野菜。一人暮らしとは思えない量だ(撮影:風間仁一郎)

20年以上続けているこの食事のおかげで、練習の疲れもそれほど残らず、体力も維持できている。質のいい睡眠を8時間たっぷりとり、寝起きはやや悪いが寝つきはいい。この食事が自分にとってベストだという実感がある。

91歳という年齢を考えたら食べすぎだという指摘も受けるが、「無理はしていない。食べられちゃうから食べているんです」と意に留めない。

【何歳でも「今さらもう遅い」なんてない】

80代前半が絶好調だったという常人離れしたパワーを持ち、生活のすべてがトライアスロンのためと断言する稲田さん。だがその一方で、「90代に入り、やはり筋肉の落ち方も激しくなってきた」と老いに向かう体の変化も意識している。

しかし、「だから日常の些細な行動でも、常に筋肉に意味がある動きにしようと心がけています。老い先短いから、ムダな時間やコトなんて1つもないんだ」と常に前向きだ。

包丁を使うときは指先の運動。歩くときはちょっと早足にしたり、ドスンドスンと足裏をたたきつけて、骨に刺激を与えたりする。筋トレ感覚で利き手ではない手も使ってみる。スーパーの買い物では、毎回荷物の持ち方を変えてみる。

「筋肉を鍛えるというよりも、使っていない筋肉に刺激を与えて目覚めさせるという感覚です。持ち主が使わないと寝てしまう筋肉の目を覚まさせる。70歳でも80歳でも、意識して刺激を与えれば寝ていた筋肉も目覚めるんですよ」

稲田さんの人生で、「今さらもう遅い」なんていう考えは1度も持ったことがない。いつだってスタートを切れるし、遅いなんていうことはないと思っている。

「やりたいことがあれば、そこが新しい人生の出発点。やってみると必ず何かしらの進化を自分にもたらしてくれるんです。何歳だろうとね。僕みたいなじいさまでも、やってみたら世界チャンピオンになっちゃったりするわけですから(笑)」

昨年、稲田さんは海外遠征のためパスポートを更新した。もちろん、有効期限は10年のものだ。

※当記事は「東洋経済オンライン」からの転載記事です。元記事はこちら

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