初公開の原画「愛護天人」(右)と掲載誌の「少女画報」(1928年12月号)。原画の右端には「胡粉のあまり目立たぬよう」などと記されている=愛媛県東温市で2024年4月6日、松倉展人撮影
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 大正から昭和初期にかけて少女雑誌の表紙や挿絵、広告画などで一世を風靡(ふうび)した愛媛県宇和島市出身の画家、高畠華宵(たかばたけかしょう)(1888~1966)が戦前に描いた雑誌挿絵の原画7点が見つかった。戦後に描かれた絵本原画約200点は残っているが、戦前のものはほとんど残されていない。今回見つかった原画は1925(大正14)年から28(昭和3)年ごろのもので、華宵を顕彰する「高畠華宵大正ロマン館」(愛媛県東温市)で開催中の展覧会「華宵的エロスの謎」で6月23日まで初公開されている。

 華宵の兄で宇和島市長や衆院議員を務めた高畠亀太郎(かめたろう)のひ孫に当たる同館館長・学芸員の高畠麻子さんによると、7点の原画は大阪府内の古書店にあることが最近になって分かり、同館が3月に入手した。うち6点は、1924~29年に華宵が表紙絵を担当した少女雑誌「少女画報」に掲載された「火焰(かえん)の巷(ちまた)」「紅顔快挙録」「愛護天人」などの小説の挿絵。残る1点は「花心なく」と題した挿絵原画で、1927、28年ごろに雑誌で使われたとみられる。

 いずれもほぼ原寸大のペン画で、写実的で美しい人物表現が特徴。麻子さんは「細密で流麗。当時、華宵は月に50~60点は描いていたとみられるが、1点1点に向き合い、常に完成度の高い作品を生み出していたことが分かる」と話す。一部の原画には、仕上げに用いた白い顔料「胡粉(ごふん)」が「あまり目立たぬよう」などと印刷についての指示が記され、妥協を許さぬ姿勢がうかがえる。

 同館によると、同県宇和島市内の華宵の実家に残っていた作品や遺品類を中心に、大正、昭和期の資料を加えた同館の所蔵品約1万点の中にも、戦前のものはほとんど残っていなかった。「著作権の概念が普及しておらず、雑誌編集部が華宵の原画を懸賞で読者にプレゼントしたことも。本人には原画への執着はそれほどなかったのかもしれません」と麻子さん。7点とも下書きをした形跡はほとんどなく、描き直した跡もないことに驚いているという。

 開館は土日祝日のみ(5月5日は休館)。午前11時~午後5時。問い合わせは同館(089・964・7077)。【松倉展人】

高畠華宵

 愛媛県宇和島町(現宇和島市)生まれ。京都で日本画、洋画を学び、18歳で上京。20代で「津村順天堂」(現ツムラ)の婦人薬「中将湯(ちゅうじょうとう)」の広告画家に抜てきされた。華麗な姿の女性、憂いをたたえる美少年など、独特の美意識で描いた大正から昭和初期の作品は雑誌の表紙や挿絵、広告画など、時代の先端をゆくメディアアートに。1928(昭和3)年の流行歌「銀座行進曲」に「華宵好みの君も往(ゆ)く」と歌われた。

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