「丹下健三 世界のタンゲと呼ばれた建築家」の表紙カバー。表は丹下建三と愛媛県今治市庁舎・公会堂、裏は広島平和記念公園の原爆死没者慰霊碑を主体に配置した=2024年4月10日、松倉展人撮影

 愛媛県今治市で少年期を過ごした世界的建築家、丹下健三(1913~2005年)。その功績を子どもたちに伝えるため、同市が独自制作した漫画「丹下健三 世界のタンゲと呼ばれた建築家」が完成した。原爆の惨禍を世界に伝える広島市の平和記念公園や平和記念資料館本館(国重要文化財)などの設計に込めた丹下の平和への思いをたどり、未来への指針とした。丹下にとって忘れられない「ある1日」も丹念に描かれている。

 「建築界のノーベル賞」といわれる米プリツカー賞を日本人で初めて受賞した丹下。いずれも国重要文化財の香川県庁旧本館・東館、国立代々木競技場(東京都)などを手がけ、戦後モダニズム建築の旗手として活躍した。堺市に生まれ、銀行員だった父の転勤で生後まもなく中国へ渡った。7歳で父の故郷である今治市へ移り、旧今治中(現今治西高校)卒業までの10年ほどを過ごした。市の核となる市庁舎、公会堂、市民会館など丹下が手がけた七つもの建築作品群が残る都市は、全国で今治以外にはない。

丹下健三が設計した(左手前から奥へ)愛媛県今治市民会館、市庁舎、市庁舎別館。右が市公会堂=同市で2019年10月26日、松倉展人撮影

 漫画は豊川斎赫(さいかく)・千葉大工学部准教授が原案と監修を担当し、今治市在住の漫画家、愛馬広秋さんが作画。丹下の長男で建築家の丹下憲孝氏も協力した。今治で過ごした少年期から旧広島高等学校(現広島大)時代、2年間の浪人を経て旧東京帝大(現東京大)建築学科に進み、戦時下も次々にコンペティション(競技設計)に入選して頭角を現す姿を描いている。

 丹下にとって忘れられない1日は、「1945・8・6」と題した章で紹介されている。当時30代の新進建築家として東京で活動していた。「父死ス」の電報を4日前に受け、ようやく手にした切符で今治に向かっていた45(昭和20)年8月6日、列車の中で広島への「新型爆弾」投下のうわさを聞く。翌7日に今治港に着くと、今治市内は6日未明の空襲で焼け野原になっていた。郊外の親類宅へ行き、この空襲で母を失ったことを初めて知る。多感な時期を過ごした今治と広島の町は、一瞬にして壊滅していた。

 「広島(ここ)を『平和を創(つく)り出す工場(ばしょ)にしなければならない』」。その思いを込めた広島平和記念公園と平和記念資料館、原爆死没者慰霊碑のデザインはコンペで1位となった。その後に世界遺産となった原爆ドームの存続が地元で議論された際の丹下の声も、漫画では伝えている。「原爆の恐ろしさ、残虐さ、非人間性。そうしたことを永久に忘れないために、そして二度と人類が原爆を使用しないために! ドームはシンボルとして残すべきだよ」

 2023年は丹下の生誕110年だった。25年は没後20年に当たり、顕彰のため今治市は市内の小学5年生全員に漫画を配布した。10日には丹下が卒業した小学校の流れをくむ市立吹揚(ふきあげ)小で贈呈式があった。記念講演で、作画を担当した愛馬さんが5年生66人に「皆さんも修学旅行で広島を訪れますが、もう一度丹下の思いを感じ取ってほしい」と語りかけた。

 漫画は非売品。今治市電子図書館のサイトから閲覧できる。【松倉展人】

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