マーサ(右)はパブに通い詰め、ドニー(左)に付きまとい、毎日大量のメールで妄想を膨らませ、思いが伝わらない怒りを爆発させる NETFLIXーSLATE

<恐怖のストーカー被害に決着をつけた後に...。善と悪の危うい境界、正気と狂気の曖昧なスパイラルについて>

ほんのささやかな親切が、あなたの人生を破滅させるかもしれない。それがドラマ『私のトナカイちゃん』だ(この記事はネタバレを含みます)。

ネットフリックスで4月に配信が始まった直後から、予想外の大ヒットとなっている。アメリカでは無名で、母国のイギリスでもほとんど知られていないコメディアンが制作・主演している1シーズン完結のシリーズとしては異例の成功だ。

全7話を見た私が保証しよう。『私のトナカイちゃん』は口コミどおり、とてもよく出来ていて、とても怖い。

ドニー(リチャード・ガッド)はロンドンのパブで働く売れないコメディアン。ある日、カウンターでうなだれている中年の女性客をふびんに思い、紅茶を1杯おごる。

マーサと名乗る彼女は弁護士だと言い、店に通い始め、ドニーを「私のトナカイちゃん」と呼んで執着するようになる。

最初はドニーも面白がっていた。何にせよ注目されるのはうれしかった。

しかし、マーサはドニーだけでなく彼の恋人にも執拗に付きまとう。電話をかけ、大量のメールを送り、どこにでも現れる。彼のライブに押しかけて大声で掛け合いを始め、自宅前のバス停に何時間も座っている。

こんなことが現実にあり得るのだろうかと、一瞬でも疑った私は自己嫌悪に陥った。この物語の大部分は、実際に起きたことなのだから。

留守電メッセージの闇

『私のトナカイちゃん』は、ガッドが自分の実体験を描いた舞台と一人芝居を基にしている。ガッドは実際にストーカーの被害に遭った(ただし、マーサは明らかに脚色されている)。ストーカーは彼の生活に侵入し、膨大な量のメールを浴びせた。

さらに、ガッドはコメディー業界の年長の男性から性的虐待を受けたこともある。いずれの経験もドラマの中でドニーの不安をあおり続け、破滅寸前に追い込んでいく。

ほぼ同じようなことがガッドの身に本当に起きたのだと知っていても、知らなくても、見ていてつらいドラマだ。加害者がドニーに薬物を使って性的虐待を加える場面は、見続けることが苦痛になる。

ドニーは必ずしも好感が持てる人物ではない。身の毛もよだつような状況の犠牲者であるにもかかわらず、彼の自滅的な決断に、これ以上は共感できないと思う視聴者もいるだろう。

しかし、最後まで見た私の心に残っているのは、マーサの描き方だ。

愛くるしいベビーフェイスのイギリス人女優ジェシカ・ガニングはこの役にぴったりで、ドニーがすぐにマーサの恐ろしさを見抜けなかったのも無理はないと思えてくる。

他人の体のファスナーを開けて中に自分をしまいたくなる、つなぎみたいにあなたを着たい──そんなことを言われているのに。

もっとも、ドラマとしてストーカーを単に異常な悪役として描くのは簡単だ。しかし、『私のトナカイちゃん』は違う。

マーサの行動はぞっとさせられることも多く、本当に許し難くなるときもある。例えば、ドニーのガールフレンドを襲って髪を引き抜き、彼女が外国人だと決め付けて人種差別的な暴言を吐く。

ドニーは次第に、マーサがそんなふうに振る舞う理由に興味を持ち始める。嫌がらせが自分の両親に向かい、ようやく警察に相談するが、脅迫の証拠が必要だと言われ、マーサからの何千件という異常な留守電メッセージを確認しなければならなくなる。

それでもマーサが自分と両親に肉体的な危害を加えると脅した証拠を見つけ、被害届を出し、裁判でマーサは有罪判決を受ける。ところが、ドニーは留守電メッセージを聞くのをやめようとしない。彼女の本当の気持ちを知りたくなったのだ。

全てはあの1杯から...

クライマックスに向けて、ドニーは精神的に追い詰められていく。かつて自分を虐待した性加害者を訪ねて共演することに同意し、パニックの発作を辛うじて抑え、通りがかったパブに入る。

そして、まだ聞いていなかった留守電メッセージの1つを再生したとき、ある疑問の答えをついに知る──マーサはなぜ、自分を「私のトナカイちゃん」と呼び続けたのか。

マーサはトナカイのぬいぐるみを持っていた。子供時代の唯一の幸せな思い出であるそのトナカイに、ドニーがそっくりだったのだ。

そのとき彼は、彼女のことを何も知らなかったと気付く。自分に対する恐ろしい行為で刑務所にいる彼女もまた、とてつもない苦しみを経験していた。

ドニーは泣き始める。バーテンダーは彼を憐れむように、コーラのウオッカ割りをおごる。ドニーは少し驚いたような表情でバーテンダーの顔を見上げた。

その瞬間、ドニーは1杯の紅茶と、それが自分の人生に引き起こした大惨事を思い出したのだろうか。

それとも、ラストシーンになるあの上目遣いは、彼もマーサと同じようにとてつもない苦しみを味わい、傷つきやすいときに見知らぬ人からの親切を経験したということを暗示しているのだろうか。ドニーも会ったばかりの人に、不健全な愛着を募らせていくのだろうか。

私たちが共感しようとしてきた主人公は、表向きの悪役とそんなに変わらない人間なのかもしれない。

最後にそんなふうに思わせるところは、このドラマの果敢な挑戦だ。正気と「狂気」を分ける境界線は、私たちが思っているよりもろい。

©2024 The Slate Group

『私のトナカイちゃん』トレイラー

Baby Reindeer Official Trailer Netflix - YouTube

私のトナカイちゃん (リミテッドシリーズ) 日本語の予告編 Netflix - YouTube

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