1988年の東京ドームでのタイソン選手戦のオフィシャルブック=2024年5月1日、新宮巳美撮影
写真一覧

 日本ボクシング界が夢見た大舞台が、5月6日に実現する。世界スーパーバンタム級4団体統一王者の井上尚弥選手(31)=大橋=が、東京ドームでルイス・ネリ選手(29)=メキシコ=と対戦する。東京ドーム(東京都文京区)でのボクシング世界戦はマイク・タイソン選手(米国)が1988、90年に戦って以来で、日本選手のメインイベント登場は初だ。その歴史的意義を探ると……。

 俳優なら三船敏郎に勝新太郎、作家なら遠藤周作、スポーツ界なら当時はスピードスケート選手だった橋本聖子・現参院議員に、プロレスラーのジャイアント馬場。そして、ボクシング世界ヘビー級の伝説的チャンピオンのムハマド・アリ……。リングサイドを彩ったのは「昭和のスター」たちだった。

 88(昭和63)年3月21日、東京ドームでの世界ヘビー級タイトルマッチ、タイソン選手―トニー・タッブス選手(米国)の一戦が行われた。4日前に日本初の屋根付き球場としての完工式があり、試合はこけら落としの一環だった。そして、王者のタイソン選手がタッブス選手を二回KO勝ちした試合を観戦したVIPらを、翌日のスポーツ紙は写真付きで報じた。

「タイソン―ダグラス」で〝予告〟

 リングから遠く離れたスタンド席から観戦していたのは、日本ボクシングコミッション(JBC)事務局長の安河内剛さん(63)だ。お世辞にも見やすい席とは言えなかったが、そんなことは気にならなかった。

 「この瞬間に、この場所にいられることが喜びでした。『見えるか、見えないか』はあまり関係ない。この経験が一番の財産でした」

ダグラス選手に十回KO負けしたタイソン選手(左)。「世紀の番狂わせ」として今なお語り継がれている=東京ドームで1990年2月11日、西山正導撮影
写真一覧

 タイソン選手は90年2月11日、再び東京ドームで防衛戦を行う。安河内さんは一観客から立場を変え、試合役員として挑戦者のジェームス・ダグラス選手(米国)の控室にいた。下馬評で圧倒的に不利だったダグラス選手だが、試合前にトレーナーが安河内さんにこう語りかけてきた。

 「こいつは今日、世界チャンピオンになるよ」

 その予告通り、ダグラス選手は十回KO勝ちの大金星を挙げる。それまで37戦全勝(33KO)と無類の強さを誇っていたタイソン選手の敗北は、「世紀の番狂わせ」とまで言われた。

 JBC本部事務局は東京ドームに隣接する。日本ボクシング界には90年以降、世界戦の会場としては34年もの間、遠い存在だった。安河内さんは「東京ドームという器で日本人がメインカードを張ることは、もうないと思っていました」

 連合国軍総司令部(GHQ)の統治が終わって間もない52年5月19日、世界フライ級タイトルマッチで挑戦者の白井義男さんが、王者ダド・マリノさん(米国)に判定勝ちし、日本初の世界チャンピオンになった。その舞台は東京ドームの前身の後楽園球場。その白井さんの一戦には約4万人の観客が詰めかけた。

 「今はいろんな娯楽やスポーツがあり、(人々は)ボクシングだけを選ぶわけではなく、ボクシングをドームでやれる可能性は年々低くなっていた。その中でやるから、なおのこと価値があります」

 安河内さんは井上選手が東京ドームでメインを飾る一戦をこう語る。

「ヘビー級タイトルマッチ以外は無理」

中島章隆さん=東京都千代田区で2024年4月22日、高野裕士撮影
写真一覧

 88年の一戦が約5万1000人を集めたと言われる一方、日本ボクシング界は「冬の時代」を迎える。

 70年代後半~80年代初めは、具志堅用高さん(68)が今なお日本記録の世界王座13連続防衛を果たした。だが、88年11月~90年2月の1年3カ月間は日本選手の世界王者が不在となる。

 90年の「世紀の番狂わせ」の4日前、現在は井上選手が所属する大橋ジムの大橋秀行会長(59)が、日本選手の世界戦挑戦の連続失敗を21で止め、久々に日本へチャンピオンベルトをもたらす。ただ、舞台は東京ドームと隣接する約1400席の後楽園ホールだった。

 88、90年のタイソン選手戦を毎日新聞運動部でボクシング担当記者として取材し、大橋会長の王座奪取も現場で取材した中島章隆さん(72)はこう述懐する。

 「当時、日本選手の世界タイトルマッチの会場は後楽園ホールや地方の体育館が多かった。4万~5万人の観客を集める試合なんて、(世界的に人気がある)世界ヘビー級タイトルマッチクラスでないと無理だろうなと思っていた」

 一方、井上選手は26戦全勝(23KO)の戦績に加え、世界4階級制覇、史上2人目の2階級での4団体王座統一を果たしている。ボクシング関係者によると、井上選手が国内で戦う試合は、最近では10万件のチケットの応募もあるという。

安河内剛さん=東京都文京区で2024年4月24日、高野裕士撮影
写真一覧

 前出の安河内さんは感慨深そうに語る。

 「井上選手が実力をどんどんつけ、世界的な選手になりました。井上選手が東京ドームで戦うことは、日本ボクシング界の一つの『夢の結晶』だと思います」

 ドームで日本選手がメインを張ることは日本ボクシング界の悲願だったのだ。

試合後に選手はドームを出て車で控室へ

 ボクシング界では34年ぶりだが、東京ドームでの大会を恒例としているのは新日本プロレスだ。例年1月4日に東京ドーム大会を開き、「1・4」の通称でも親しまれている。

 「1・4」で営業を担当する込山勝也さん(39)は「東京ドームは(地方大会などで)ずっと日本各地を回ってきた1年の集大成です」と語る。地方大会は警備員らも含めて約50人のスタッフで全体を運営している。しかし、「1・4」は照明などの各業者を含めれば、200~300人規模で運営している。やはり東京ドームでの試合=興行は「規格外」なのだ。

 新日本プロレスは92年からは毎年「1・4」を開催している。込山さんも高校生の頃に地元の長野県から、初めて東京ドーム大会を観戦に訪れた衝撃を覚えており、こう力説する。

 「ステージ(の豪華さ)が全然違い、選手も、ど派手に入場する。大物外国人選手が来て、すごいビッグマッチが組まれる。プロレスファンにとって夢のような場所だった」

今年の「1・4」が開催された際の東京ドーム=新日本プロレス提供
写真一覧

 実は、プロレス6団体が協力して井上選手の試合がある5月6日、日本武道館(千代田区)で「ALL TOGETHER」と題した興行を開催する。能登半島地震の復興支援などを目的とした大会で、込山さんは「ボクシングとプロレスが同じ日に近い場所で盛り上げて、日本中を笑顔にできれば」と意気込む。

 井上選手の試合はホームから見て二塁後方のグラウンド上にリング、スタンド下に関係者らの控室が設けられる。選手らはバックスクリーン付近から登場し、赤と青の各コーナーに分かれてリングに向かう予定で、その移動距離は100メートルを超えそうだ。

 JBC担当者によると、試合当日は異例の対応がとられる。試合後に選手らはリングを下りた後、一度ドームの外に出て、車で控室近くまで戻る予定だ。

 さまざまな人々の思いが交錯し、日本ボクシング界の悲願でもあった「5・6 東京ドーム決戦」。井上選手はどんな「伝説」を新たに築くのか。【高野裕士、村社拓信】

鄭重声明:本文の著作権は原作者に帰属します。記事の転載は情報の伝達のみを目的としており、投資の助言を構成するものではありません。もし侵害行為があれば、すぐにご連絡ください。修正または削除いたします。ありがとうございます。