昭和後期のプロ野球に偉大な足跡を残した偉大な選手たちの功績、伝説をアウンサー界のレジェンド・德光和夫が引き出す『プロ野球レジェン堂』。記憶に残る名勝負や“知られざる裏話”、ライバル関係とON(王氏・長嶋氏)との関係など、昭和時代に「最強のスポーツコンテンツ」だった“あの頃のプロ野球”を、令和の今だからこそレジェンドたちに迫る!
初めて内野・外野の両方でダイヤモンドグラブ賞(現在のゴールデングラブ賞)を獲得した高田繁氏。巨人V9立役者の一人でベストナイン4回。クッションボールの処理がうまく“壁際の魔術師”と呼ばれたプロ野球史上屈指の名レフトに德光和夫が切り込んだ。
同級生部員300人で1年からベンチ入り
大阪市で生まれ育った高田繁氏。甲子園に出場することが夢だった高田氏は野球の名門・浪商高校(現・大阪体育大学浪商高)に入学する。しかし、この選択はある勘違いによるものだったという。
高田:
夏は地方大会があって勝ったところが甲子園出場ですよね。でも春の選抜は、選ばれた学校が出場するので、成績は関係なくて、大阪からは必ず浪商が出ると思っていたんです。それぐらい当時は浪商が圧倒的でした。
僕は甲子園に出たいという一念でね。それで、浪商しか頭になかったんです。
徳光:
当時の浪商は野球部員も相当いたんですよね。
高田:
1学年で300人です。入学する生徒が全体で大体380人ぐらいなんですよ。そのうち野球部に入ったのが300人でした。
でも300人もいたら邪魔でしょ。だから、野球部に入る手続きをして入部金さえもらえたら、部としたらあとはもう辞めさせたいわけですよ。
レギュラーじゃない先輩がいっぱいいますよね。その人たちが付いて、辞めさせるためのランニング、辞めさせるためのウサギ飛び。いろんな練習ありますよね。それで、どんどん辞めさせるんですよ。夏の時点で80人。
徳光:
そんななか、高田さんは1年から出られたんでしょ。
高田:
そんな環境だから、1年から試合なんか出たら大変です。ねたまれましたよ。
当時一緒にやったのは阪急にいった大熊(忠義)さん、住友(平)さん、このお2人は3年生でした。1つ上が、あの“怪童”尾崎行雄さんでした。
先輩の急病で甲子園優勝メンバーに
そうそうたるメンバーに混じって1年生から浪商高校のベンチに入った高田氏。迎えた夏の甲子園ではレギュラーとして活躍し、深紅の優勝旗を手にした。
高田:
最初は完全なレギュラーではなかったんですよ。でも、甲子園で1戦目が終わった後、レギュラーのレフトが体調崩して、僕が2戦目から先発出場するようになったんです。だから僕は1戦目は出てないんです。
徳光:
1年生の夏から活躍されたんですか。
高田:
大体毎試合1本はヒット打ってました。
準決勝は、柴田(勲)さんがエースだった法政二高が相手。法政二高は春に優勝して春夏連覇がかかってたんですけど延長で4対2で勝ったんですよ。
決勝は和歌山の桐蔭高校、左のいいピッチャーがいたんですけど1対0で勝って優勝できたんですね。
ピッチャーに尾崎さんがいて、ほかにもいいメンバーがいっぱいいるわけですから、「俺、あと4回甲子園に行けるな」と思っていたんです。
でも、夏の甲子園が終わったら尾崎さんが…
徳光:
2年生で東映フライヤーズに行ったんだ。
高田:
中途退学したんです。あの頃はドラフトがないから、いい選手は高校生でも途中で取れたんです。
僕は中学時代ピッチャーで、ピッチャーと外野の両方練習してたんで、「すぐにピッチャーをやれ」ということになって。秋の近畿大会は急きょ僕が投げたけど1回戦で負けたんですよ。だから、春の選抜は行ってない。それから僕は甲子園に行ってない。だから、甲子園は1年の夏1回しか出てないんですよ。
徳光:
尾崎さんはやはりすごかったですよね。
高田:
真っすぐだけでピッチャーを1人選べと言われたら僕は尾崎行雄さん。何がすごいって、速さじゃないんですよ。バッターが振ったバットのはるか上をボールが行くんです。
徳光:
ボールが浮き上がるんですか。
高田:
本当は、ボールって浮き上がらないんですってね。でも、浮き上がってるっていうぐらいグワンと来る。だから当たらないんです。
大谷の160km/hだったらキャッチャーミットにボールが入ってから振るというような速さを感じるかもしれないれど、尾崎さんの球はバットを振っても、ボールがその上を行くから、当たるタイミングでバットを振っても当たらない。
本気で投げたらキャッチャーが取れないぐらいの球でしたね。
南海と契約寸前も
高校卒業後、プロには入らず明治大学に進学した高田氏。実はこのとき、プロから誘いがあり高田氏自身もプロの世界に進むつもりだったという。
高田:
プロに入ろうと思ってたんですよ。
阪急と南海が来てた。当時の南海の鶴岡(一人)監督と会ったりもしてたんです。家が南海電鉄沿線で、僕は元々は南海ファンだったんですよ。阪神や巨人には全然興味がなかった。南海が大好きだったんです。
本当は東京六大学に行きたかったんですけど、六大学に行くと、学費とかお金がかかりますよね。これ以上、親に迷惑かけられないから南海に入ろうと思ってね。契約金の話までして判を押す寸前まで行ってたところで、浪商の監督、当時の理事長が出てきて、ダメだっていうことでストップがかかった。
徳光:
理事長は、なぜダメだって言ったんですか。
高田:
このままプロに入っても大成しないと思ったんだと思います。体が小さかったしね。だから不安を持ったんじゃないですか。「大学に行った方がいい」って。
明治“島岡御大”が日本刀を…
徳光:
浪商の厳しさで鍛えられた高田さんですけど、明治大学はもっと厳しかったでしょ。
高田:
“御大”のこと、知らなかったんですよ。あんな恐ろしい、あんな怖い人だと思わなかったんですよね。
当時、明治大学野球部監督だった島岡吉郎氏。37年に渡り野球部を指導しリーグ優勝15回、大学日本一5回。“島岡御大”と呼ばれ、鉄拳制裁も辞さない熱血指導で神宮を沸かせた。
徳光:
御大のことを知らずして明治大学に入った唯一の人だと思いますよ。
高田:
いやほんとに恐ろしい。俺らの入った時はまだ50代かな。だから元気でね。
春のリーグ戦の前に社会人と対抗戦があったんですよ。4年生のキャッチャーがミスして負けたらね。その先輩の名前呼んで、「お前、野球続けたいか」って言い出して、当然「はいっ」って答えるじゃないですか。そしたら「よし、前に出ろ」って言って、ボンボン殴りだしたんです。「わぁ、えらいとこに来たな、すごいとこに来たな」と思いましたね。
高田:
僕ら3年のとき、負けて立教が優勝したときかな。もう御大がイライラしてる、怒ってるわけですよね。食事が終わったら、マネージャーが飛んできてね。「大変だ。御大が日本刀持ってこっちに来るから、みんな逃げろ!」って。
徳光:
高田さんは怒られたことはあるんですか。
高田:
あるけれども鉄拳制裁までは行かなかった。島岡さんに鉄拳食らってないっていうのは数少ないんじゃないですかね。
でも、勝ったら4年生は新宿に出て飲み食いですよ。「好きなだけ飲め、好きなだけ食べろ」って。早稲田と慶應に勝ったら必ずやる。早慶には、ものすごいライバル心を持ってる。
だから、早慶に負けると合宿所がシーンとして、御体が風呂に入ってる間にみんな大急ぎでご飯食べて出会わないようにしてましたよ。勝つと負けるで「天と地」でした。
そんな島岡監督だったが、東大に対してだけは全く違う一面を見せたという。
高田:
御大は東大の人たちには、すごく気を遣ってね。リーグ戦が終わったら東大とは一緒に食事会やるんです。「いいか、お前ら。東大の人たちは卒業したら偉くなる人たち。出世するから、みんな、仲良くなっとけ」って。面白いでしょ(笑)。
(BSフジ「プロ野球レジェン堂」 24/4/16より)
【中編】へ続く
「プロ野球レジェン堂」
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