パキスタン代表に選ばれた青森・三沢高のジャン・ハスネン選手=台北で2024年9月1日、長宗拓弥撮影

 台湾で開催されている野球のU18(18歳以下)アジア選手権に参加したパキスタン代表に日本の高校球児がいる。青森・三沢高のエースで4番を担ったジャン・ハスネン選手(18)だ。しかし、国内選手が現地入りできずメンバー不足に陥り、チームは大会を棄権する事態に見舞われた。

出国許可されず

 台北ドームで1日に行われた開幕前日練習。パキスタン代表の中に「MISAWA」の文字が刻まれたユニホームを着た選手が交じっていた。この時点で台湾に集まったパキスタンの選手は6人だけ。ジャン選手は「こんなことが起きるなんて思わなかった。試合ができると思って気合を入れて準備したい」と気持ちを切り替えたが、代表の試合用ユニホームさえ手元に届かないまま戦いは終わりを告げた。「自分の力を試したかった。悔しいが、仕方ないですね……」と振り返った。

 大会はアジア8カ国・地域が参加し、パキスタンは18人を選手登録した。パキスタン野球連盟のメディアマネジャーによると、パキスタン国内からの12人が外交関係がない台湾へ向けた出国が許可されなかったという。日本から渡航したジャン選手のほか、4人は米国、1人はカナダから直接台湾入りしたものの、9人が集まらずに全試合が「0―7」の不戦敗扱いとなった。

 ジャン選手は、貿易関係の会社を営む父の仕事の都合で、小学4年の時にパキスタンから青森県へ移住した。小学5年で野球を始め、地元の中学校でも軟式野球部に所属。高校は兄も通う三沢高で野球を続ける道を選んだ。

 三沢高はエースの太田幸司さんを擁した1969年夏の甲子園で準優勝した古豪。延長十八回引き分け再試合となった松山商(愛媛)との決勝戦は名勝負として今も語り継がれている。ジャン選手は「もちろん歴史を知っていました。校舎には準優勝旗や太田さんの写真も飾ってあります。いつか自分たちも甲子園に行きたいと思って練習を頑張ってきました」と語る。

U18アジア選手権のオープニングセレモニーで、両腕を上げて歓声に応えるパキスタン代表のジャン・ハスネン選手(中央前から3人目)=台北で2024年9月2日午後5時57分、長宗拓弥撮影

 憧れの甲子園には届かなかった。それでも、ジャン選手は1年秋から一塁手のレギュラーを勝ち取り、3年時にはエースで4番の中心選手として活躍した。投手としては最速133キロの直球にカーブ、スライダー、チェンジアップなど多彩な球種を操り、自身を「技巧派の変化球投手」と言う。

 打者としては身長170センチ、体重102キロのパワーを生かし、高校通算16本塁打を放った。「青森では少しだけ、知られた存在です」と照れ笑いする。今夏の青森大会は2回戦で弘前学院聖愛にコールド負けしたが、高校卒業後はプロ野球選手を目指し、日本の大学に進学する予定だ。

 パキスタンは野球が盛んな国ではない。U18には親のサポートもあり、自費で参加したという。日本とは1次リーグで別組になったため、同じ組の台湾と韓国を破り、2次リーグで日本と対戦することを目標にしていた。チームメートは現地合流で全員が初対面だったが、米国やカナダから合流した選手たちは粒ぞろい。「140キロくらい投げる子もいて、みんなレベルが高かった」と試合を心待ちにしていたが、棄権という受け入れがたい現実が待っていた。

日本が練習に招待

 一方、日本代表もプレーする機会がなくなったジャン選手のことを気にかけていた。失意のジャン選手を励まそうと、5日の休養日に日本の練習に招待することを決めた。

 「試合はできなかったが台湾でいろんな人に出会うことができ、これもいい経験になった。将来はパキスタンの野球にも貢献したい。後輩たちが今回の自分のような思いをしてほしくないので、連盟などで運営側の仕事もしてみたい」

 憧れの甲子園で活躍した選手と過ごす時間は、かけがえのないものになるはずだ。【台北・長宗拓弥】

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