男子シングルス1回戦、第1セットでショットを放つ小田凱人選手=福岡県飯塚市で2024年4月9日午後1時8分、平川義之撮影

 8月に開幕するパリ・パラリンピックの前哨戦と位置づけられ、世界のトップ選手が参加する「第40回飯塚国際車いすテニス大会」(日本車いすテニス協会など主催)が福岡県飯塚市で開幕し、14日までの日程で熱戦が繰り広げられている。今大会には五輪でメダルが期待される小田凱(とき)人(と)選手や上地結衣選手=いずれもシングルス世界ランキング2位=らも参加。今や「アジア最高峰」と称されるまでに成長した同大会だが、約40年前に大会初開催にこぎつけたのは、地元のケースワーカー(故人)だった。

 肌寒さの残る大会初日の9日、男子シングルスで大会2連覇を狙う小田選手は日本人選手と対戦し、車いすを軽快に動かしながらショットを決めると観客席から拍手が起きた。今大会には23カ国・地域から約100人の選手が集結。英国のアルフィー・ヒューエット選手=同1位=も勝ち進んでおり、小田選手との対戦に注目が集まる。

男子シングルス1回戦に出場した小田凱人選手を一目見ようと訪れた人たち=福岡県飯塚市で2024年4月9日午後1時48分、平川義之撮影

 日本車いすテニス協会によると、同大会は車いすテニス大会で最もグレードの高い「グランドスラム」に次ぐ「スーパーシリーズ」に国内大会で唯一、位置づけられている。これほどの大会がなぜ、飯塚市で開かれるようになったのか。

 飯塚市は福岡市、北九州市、久留米市に次いで福岡県内で4番目に人口の多い都市。かつて炭鉱業で栄えた飯塚では炭鉱災害などで脊髄(せきずい)を損傷した患者が少なくなく、専門病院「総合せき損センター」(飯塚市)が救命救急の初期治療から患者の社会復帰までを支えてきた。

 日本で車いすテニスが知られるようになった1980年代、同センターでケースワーカーとして働いていた星野治さん(2002年に51歳で死去)が、患者のリハビリとして車いすテニスの導入を提案し実現。やがて患者から、練習の成果を確かめるためにも「車いすテニス大会を実施してほしい」との要望が出たため、地元ロータリークラブなどの協力を得て85年に初めて車いすテニス大会を開催した。

飯塚国際車いすテニス大会の開催に尽力した星野治さん=九州車いすテニス協会提供

 当初は1回限りの予定だったが、関係者から大会継続を求める声が相次いだことから、星野さんらはスポンサー探しに奔走。成功裏に終わった第1回大会の実績を認めてくれた企業数社がスポンサーとなり、何とか大会継続にこぎつけた。

 当時、星野さんとともに大会運営に奔走した、飯塚国際車いすテニス大会会長の前田恵理さん(69)は「資金を提供してくれるスポンサー探しや期間中の運営などすべて自前。運営を継続することの難しさを常に感じていた」と振り返る。

 その後、大会は毎年開催されるようになり、星野さんが胃がんで亡くなった02年の大会では、日本人として初めて斎田悟司選手が優勝。14年には男子シングルスで、元世界ランキング1位の国枝慎吾さん=23年に引退=が、女子シングルスで上地選手が優勝するなど、近年では日本人選手の活躍が目立つ。今大会も小田、上地両選手の活躍に期待がかかる。

 星野さんはどんな思いで亡くなったのだろうか。亡くなる1カ月前に見舞ったという前田会長は「『なんもできんでごめんな』との星野さんの言葉を忘れられない。最期までいつもと変わらない様子で大会のことを気にしていた」と話す。

 星野さんだけでなく、初回の大会から運営を支え続けた関係者の多くは亡くなった。だが、「飯塚で大会を続ける」という車いすテニスの“パイオニア”の熱意は、確実に仲間たちに受け継がれている。【岡村崇】

飯塚国際車いすテニス大会

 1985年に初めて開かれ、新型コロナウイルスの感染が拡大した時期を除いて毎年開催。40回目となる今大会では、延べ約2000人のボランティアが会場整備やボールパーソン、通訳などで大会運営を支援する。2023年の前回大会では過去最多の延べ約9000人の観客が訪れた。すべての来場者を収容できない試合もあったことから、13、14両日に初めてパブリックビューイング会場を設置する。

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