女子やり投げに取り組んでいた頃の斎藤由希子選手=鳥取市のコカ・コーラウエストスポーツパーク陸上競技場で2016年4月30日、徳野仁子撮影

 元世界記録保持者が、念願のパラリンピックに初出場する。実力だけではない「壁」に阻まれ続け、一度は諦めかけた夢がかなう瞬間が来た。

山に向かって投げる

 宮城県気仙沼市出身の斎藤由希子選手(31)=SMBC日興証券=は、生まれつき左腕の肘から先がなかった。「障害を隠した方がいい」。そんな内向きな幼少期の考え方を変えたのが、陸上砲丸投げとの出合いだった。

 中学校の時、担任教諭から誘われたのがきっかけ。個人競技で「チームの仲間に迷惑をかけずに済む」と考え、片手で取り組める点もありがたかった。

 「私の活躍で母親が周囲から『頑張っているね』と声を掛けられるのがうれしかった」

 競技への意欲と比例して記録が伸び、健常者の大会でも上位に入るほど力を付けた。

 困難に直面したのは高校2年生だった2011年3月11日。部活動の準備運動をしている時に地面が揺れた。東日本大震災だった。

神戸市で開かれた世界選手権の女子砲丸投げ(上肢障害F46)で銅メダルを獲得した斎藤由希子選手=神戸ユニバー記念競技場で2024年5月22日、玉城達郎撮影

 避難した学校近くの高台から、船が転覆し、住み慣れた街から火の手が上がる惨劇を目の当たりにした。自宅は流され、母親と2人の弟の安否は不明。再会は2週間後だった。

 仮設住宅に避難し、日々の暮らしがままならない状況でも、高校最後の全国高校総体(インターハイ)は諦められなかった。練習場所がなく、近所の山に登って誰もいない所で投げ、自分で取りに行く。その繰り返しだった。それでも練習不足が響き、インターハイ出場の目標はかなわなかった。

世界記録…でも遠いパラリンピック

 雪辱を誓って競技を続けた大学で、本格的にパラ陸上へ転向する。円盤投げ、やり投げ、砲丸投げでいきなり日本記録を更新した。特に得意の砲丸投げで大学4年の時に記録した12メートル47は、昨年に海外選手に抜かれるまで、長らく上肢障害F46クラスの世界記録だった。

 だが、パラリンピック出場はかなわなかった。女子砲丸投げは同じクラスの競技人口が少なく、12年ロンドン大会からパラリンピックで実施されなくなったためだった。

 アスリートとしての実力を評価され、企業に所属した頃からは、結果を求めて同じ投てき種目でも「得意ではない」というやり投げでパラリンピックを目指した。だが入社1年目の16年リオデジャネイロ大会に続き、自国開催だった21年の東京大会も代表を逃した。

 「やり投げに対して楽しい気持ちになれなかった。このまま行くとあまり良くないことになる」

 引退がちらついた頃、吉報が届いた。「本職」の砲丸投げの自身のクラスが、パリで復活することになったのだ。17年に結婚し、東京大会が開かれていた21年夏には妊娠が分かった。ただ、新たな目標ができ、「引退」は消えていた。

12メートルから8メートルに記録が急降下

 出産から3カ月後の22年6月に本格的な練習を再開した。ただ、体重が15キロ近く減り、筋力も大幅に落ちていた。

パリ・パラリンピックへ向けた目標をつづった色紙を手に笑顔を見せる斎藤由希子選手=東京都内で2023年11月10日、川村咲平撮影

 12メートルを超えていた記録は、復帰直後は8メートル。「記録が戻らなかったらどうしよう」と不安は募った。しかし、地道な筋力トレーニングとフォーム修正を繰り返し、記録が戻り始めた。昨夏の世界選手権では11メートル42で3位に入り、パリ出場を確実にした。

 5月に神戸で開かれた世界選手権では11メートル72で2大会連続の銅メダルを獲得した。しかし、目標の12メートルにはまだ届いていない。その悔しさはパリで晴らすつもりだ。

 パリ大会の目標は「笑顔で表彰台に立つ」。斎藤選手の女子砲丸投げがあるのは、日本時間の4日夕。幾多の困難を乗り越えた競技人生の先に待っていた念願の晴れ舞台は、最高の笑顔で締めくくるつもりだ。【川村咲平】

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