甲子園への道程は険しい。近年、そのことを最も痛感しているのが霞ケ浦だ。
1990年にセンバツ出場を果たした後は長く低迷。2001年に就任した高橋祐二監督の指導で力をつけ、08年夏の茨城大会で初めて決勝に臨んだ。常総学院を相手に九回2死までリードしながら追いつかれ、延長十回サヨナラ負け。以後14年まで5度決勝に勝ち上がり、全て敗れ去った。
14年夏、1年生ながらベンチ入りした飯村将太が当時の心境を明かす。「エースの上野拓真さん(元北海道ガス)を中心に力があるチームだと思っていたけれど、決勝は(大差を付けられる)とんでもない展開になって。『決勝で勝てない』ってジンクスが本当にあるのかもと感じた」
しかし翌年夏、呪縛を断った。日立一との決勝は一回にスクイズなどで2点を先取。その後は再三の好機に決定打を欠いたが、継投で相手打線を1安打零封して逃げ切った。
地元は盛り上がった。「出発式があった土浦駅前の人出がすごかった。惜しいところで何度も負けた末の初出場だから、熱が入ったんでしょうね」。甲子園へ出発する選手らを見送ろうと約400人が駆けつけた。
甲子園の歓声「足が震えた」
待望の甲子園1回戦は広島新庄との対戦。9番・三塁で先発出場した飯村は、何よりも歓声の大きさが印象に残るという。「1ストライク、1ボールごとに聞いたことのないような歓声が響き、打席で足が震えました」
四回は1点を返し、なお2死二塁で打席を迎えた。マウンド上には2年生左腕・堀瑞輝。16年のドラフト会議で日本ハムから1位指名を受ける逸材だ。「当時でも140キロ台中盤ぐらい出ていて、いいピッチャーだった」
2ボールからの3球目。「ストライクが来たら振るつもりだった」。131キロを強振すると、鋭い打球がバックスクリーン方向へ。大歓声の中「もしかしたらホームランかと思った」。しかし背走した中堅手がフェンス手前で好捕し、追加点はならなかった。
六回の打席も印象深い。先頭打者が内野安打で出ると、送りバントを投前に転がし好機を広げた。「全集中で、うまく決められた。めっちゃ練習してきましたから」。得点にはつながらなかったが、大舞台で成果を出せた手応えを感じた。
敗戦後、甲子園の砂をしっかり持ち帰った。「僕だけの力で野球ができたわけではない。応援してくれた親や親戚に感謝の思いを伝えるために、砂を渡しました」
2年秋から本格的に投手に転向したが、甲子園に戻ることはできなかった。秋は県大会を制したが、関東大会の準々決勝で東海大甲府にコールド負け。翌夏は準決勝で明秀日立と対戦し、細川成也(中日)に浴びた3ランが決勝点となり1―3で敗れた。「秋は力負けだけど、夏はあの一発だけ。悔しい1球になりました」
社会人でプレーを続けるその土台は、高校時代に培われた。「甲子園に行きたいという思いだけで、どんな厳しい練習も皆で頑張れた。そう考えたらすごい場所ですよね」
5年ぶり聖地に
高橋監督は今も選手らに、初出場時に甲子園で味わった体験を語っているという。
試合を控え、ナインはエアコンの効いた室内で待機する。しんと静まりかえり、高橋監督は「歓声も何も聞こえないんだな」と肩すかしの思いだった。しかし前の試合の終了間際、グラウンド整備準備のために扉が開け放たれると、頭からものすごい歓声を浴びた。
「全身鳥肌が立った。あんな感覚はどこでも経験できない。子どもたちに言っています。『甲子園って最高の場所だぞ』って」
経験は語り継がれ、新しい世代の意欲をかき立てる。霞ケ浦はこの夏、5年ぶりの聖地に臨む。(敬称略)【田内隆弘】
茨城大会決勝での霞ケ浦の戦績
2008年 ● 2―3 常総学院
10年 ● 0―11 水城
11年 ● 5―6 藤代
13年 ● 2―4 常総学院
14年 ● 3―12 藤代
15年 ◯ 2―0 日立一
17年 ● 9―10 土浦日大
19年 ◯14―0 常磐大高
23年 ● 3―5 土浦日大
24年 ◯ 9―3 つくば秀英
飯村将太(いいむら・しょうた)さん
2015年、霞ケ浦が初出場した夏の甲子園で三塁手として先発出場。2年秋から投手。桜美林大を経て九州三菱自動車(現・KMGホールディングス)でプレーし、23年日本選手権、24年都市対抗出場に貢献した。
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