1984年センバツで投げるPL学園の桑田真澄投手=阪神甲子園球場で

 高校球児の憧れの場所として、多くのドラマとヒーローを生んだ阪神甲子園球場が、8月1日で誕生100周年を迎える。PL学園高(大阪)のエースとして、歴史に名を刻んだ巨人の桑田真澄2軍監督(56)が「聖地」に対するあふれんばかりの思いを語った。

「10点以内」のつもりで完封

 桑田さんにとって甲子園の記憶は「おっちゃん」と「匂い」から始まる。

 「3年間で1回出場できたら良い」と思っていた夢舞台は、意外なほど早く実現した。1年生ながら主力投手として出場した1983年夏、ライトスタンド付近で開会式の入場行進を待っている時のこと。ふいに、グラウンド整備を行う阪神園芸の男性から「お前か。PLの1年坊主は。甲子園はな、風を見て投げろよ」と言われた。

 どういう意味か分からなかったが、行進が始まり球場に足を踏み入れた時、初めて「浜風」を体感して、納得した。マウンドでは、バックスクリーンの旗に目を配りながら投球するようになった。「甲子園の特徴を教えてもらった15歳の夏でしたね」と懐かしむ。

 もう一つ、初めての甲子園で感じたのが、独特の「匂い」だった。「芝生と土、あと大阪の人なら誰もが知ってるソースの匂いが混ざった香りがすごく忘れられない」。独特の香りと雄大さに圧倒された聖地で、伝説が幕を開けた。いきなり全国制覇を達成すると、春夏通算5季連続出場し、清原和博さんとの「KKコンビ」で野球界のスター街道を駆け上がった。

 数々の激戦を経験した甲子園の中で、前年王者で強打を誇った83年夏の選手権、池田(徳島)との準決勝が特に忘れられない。

 先輩から「10点以内に抑えろ。大阪の恥をさらすな」と言われた。「(打たれないのは)絶対に無理だけど、向かっていくしかない」とマウンドに上がると一回を「ゼロ」に抑えた。

 「なんとか9点に抑えよう。1イニング1点まで大丈夫」と考えていた分、気が楽になると、そこから波に乗った。終わってみれば、7―0の完封劇に「絶対に諦めちゃいけないことを学びました」と語る。

直球とカーブだけ

PL学園時代の清原和博さん(左)と桑田真澄さん

 桑田さんの高校野球を語る上で欠かせないのが、清原さんの存在だった。「彼がいなかったら、僕の20勝もなかったでしょうしね。13本もホームランを打ってくれてるわけですから」。一方、「僕ら2人だけでは、こういう記録は出せなかった。いい仲間に恵まれたと思います」と感謝する。

 桑田さんが直球とカーブだけで抑え続けた「伝説」として語り継がれている。だが、紅白戦でスライダーとフォークも投げていた。

 1年夏に優勝してからは、2年春と夏は準優勝。優勝するため、ほかの変化球を投げるべきか「葛藤はあった」というが、それでも封印したのは「これで抑えられないような投手は、プロに入ってエースになれない」と自分の中で決めていたからだった。ピンチの場面では、一塁から清原さんがマウンドに来て「桑田、フォーク使えよ。三振やぞ」と言われたが、「キヨには『いや、アカンねん。俺は真っすぐ、カーブで勝負せなアカンねん』ってね。よく言っていました」。

 栄光も、苦労も経験した桑田さんにとっての甲子園は、聖地であると同時に「砥石(といし)」だったと表現する。「やはり甲子園大会っていうのは厳しいですよ。でも、そこに向かっていろんなことをチャレンジし、そして自分を磨いてくれる」。そんな場所だった。

「金の卵」を守る

阪神甲子園球場への思いを語る巨人の桑田真澄2軍監督=川崎市内で2024年6月、川村咲平撮影

 桑田さんが活躍してから約40年が過ぎ、時代の変遷とともに、甲子園でプレーする高校生のために、さまざまな新しい取り組みが導入されている。その一つが、午前と夕方の時間帯に試合を分ける「2部制」の導入だ。桑田さんも「すごくいいと思いますよ。大人の都合で選手たちの健康とかコンディショニングを悪くするのは良くない」と賛同する。それでも、現状を「半歩前進」と捉えて「まだまだやれることはたくさんあります」と指摘する。

 例えば、高校野球は午前中のみにして、夜はプロ野球に切り替える方法を提案する。当然、大会期間は延びることになるが「資金繰りはプロ野球が協力してもいい。野球界が一つになって、大切な金の卵である高校球児を守ろうとすればいくらでもできる」。さらに踏み込んだ対策を期待していた。【川村咲平】

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