競泳男子400メートル個人メドレー決勝、2位になり瀬戸大也と抱き合う松下知之(右)=ラデファンス・アリーナで2024年7月28日、和田大典撮影

 将来を期待される日本競泳界の新星だ。パリ・オリンピックの競泳男子400メートル個人メドレーで銀メダルを獲得した松下知之選手(18)=東洋大。「萩野さんと瀬戸さんを足して2で割った感じと言われる。まさにそうなのかな」。偉大な先輩たちとはまた違う強さを求め、歩んできた。

ここぞの「爆発力」

 2021年に現役を退いた萩野公介さん(29)と、パリ五輪代表の瀬戸大也選手(30)。長く日本の個人メドレーをリードしてきた2人だ。

 特に、16年リオデジャネイロ五輪男子400メートル個人メドレー金メダリストの萩野さんは、松下選手と同じ栃木県出身だ。同じゴーグルを買いそろえたり、ルーティンをまねたりするほど憧れてきた。

 一方、2人と自分は「タイプは違う」という。

 松下選手から見て「(4泳法が)まんべんなくめちゃくちゃ速くて、ちょっと異次元」な萩野さんと、「しなやかで器用な泳ぎをする」瀬戸選手。「2人になりたいとは思っていない。違う道で(2人を)超えていければ」と話す。

 3月まで松下選手を指導したスウィン宇都宮の永松康一コーチ(58)も、こう強調する。「松下は松下ですね。萩野くんでもないし、瀬戸くんでもない」

 もともと松下選手は手のひらで水を捉える感覚に優れている。体を水面に対して高い位置でキープし、抵抗の少ない泳ぎができるのも特長だ。

競泳男子200メートル個人メドレー予選、決勝進出を決めた松下知之の背泳ぎ=ラデファンス・アリーナで2024年7月28日、和田大典撮影

 そして、永松コーチが何よりの強みと感じるのが、ここぞというときの「爆発力」だという。

 「あれだけのスピード、爆発力は、瀬戸くんや萩野くんを上回ってるんじゃないのかな」

 3月にあったパリ五輪代表選考会の400メートル個人メドレー決勝も、この言葉を裏付けるようなレースだった。

 平泳ぎまでは先頭の瀬戸選手に体一つほどリードを許していた。だが、自由形のラスト50メートルで一気に抜き去りトップでフィニッシュし、初の五輪切符をつかんだ。

 ラスト100メートルの自由形のラップタイムは56秒台。同じ最後の自由形で比べると、萩野さんがリオデジャネイロ五輪決勝で出した日本新記録と、レオン・マルシャン選手(22)=フランス=が23年の世界選手権でマークした世界新記録はともに58秒台だ。

 4泳法の得意不得意やそれぞれのレースプランもあり、一概には比較できない。それでも「ラストの爆発力」は十分に世界と渡り合えることを示していた。

競泳男子200メートル個人メドレー予選、決勝進出を決めた松下知之=ラデファンス・アリーナで2024年7月28日、和田大典撮影

 永松コーチが松下選手を指導し始めたのは中学1年の時だ。細かいラップタイムやストロークの回数を意識して練習を積ませると「どんどん成長していくのが目に見えて分かった」。みるみる実力を伸ばした。

 中学3年の時は新型コロナウイルスの感染拡大により、大会が相次いで中止になった。本人は落ち込むそぶりも見せたが、永松コーチは「試合がなくなったことをずっと引きずっていても仕方ない」と繰り返し伝え、気持ちを切り替えさせようと心を砕いた。

 それをきっかけに、松下選手は普段の練習から「切り替え」がうまくなった。「良くなかった時もそれをうまく自分の中で消化して、次はどう修正するか考えられるようになった」と永松コーチは語る。

 だが、高校3年生だった23年の日本選手権で、松下選手は挫折を味わう。

 その年の世界選手権の代表選考を兼ねていたが、400メートル個人メドレーは予選23位に沈み、200メートルも決勝で6位と代表を逃した。「全然歯が立たなかった。何もできなかった自分が悔しかった」。初めてレース後に涙を流した。

 それでも、9月の世界ジュニア選手権の代表に選ばれると、培ってきた切り替える力を発揮する。

 「もし引きずっていたら話をしなきゃいけないかなと思ったんですが、もう一回やり直す、原点に立ち返るという気持ちになれたようだった」。永松コーチは目を細める。

 その結果、世界ジュニア選手権は400メートル個人メドレーを大会新記録で優勝。国内の大会でも実績を残し、一躍パリ五輪の代表候補に名乗りを上げた。

 迎えた今年3月の代表選考会。松下選手は「誰よりも負けた悔しさを味わってきた。絶対に競ったら負けない自信はありました」と、並々ならぬ決意で臨んだ。最後に競り勝てたのは持ち前の「爆発力」に加え、人一倍強い覚悟があったからだった。

 その5日後。出場全レースを終えた松下選手に、永松コーチはサブプールで声をかけた。

 「これ(今回の選考会)は通過点だからね。(パリ五輪は)最低でも決勝、やっぱりメダルを目標にしなきゃだめだ」

 この大会を最後にスウィン宇都宮を離れ、東洋大に入学する教え子へのエールでもあった。

 帰ってきた返事は一言、頼もしかった。

 「分かっています。ここで満足はしていません」

 それから4カ月。宣言通り、見事にメダルをつかんでみせた。これから世界に羽ばたいていく。パリの舞台も、そのための通過点だ。【パリ深野麟之介】

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