早田ひな選手の名札を手にする石田千栄子さん。名札の「H17・1」は、早田選手が初めて球を打った「平成17年1月」を示しているという=北九州市八幡西区で2024年7月17日午後2時56分、宮本勝行撮影

 オリンピック初出場の卓球女子、早田ひな選手(24)=日本生命=に向けて、ひときわ強い思いでエールを送る人たちが地元の北九州市にいる。選手としての礎を築いた卓球クラブ「石田卓球N+(エヌ・プラス)」(北九州市八幡西区)のコーチ、石田千栄子さん(71)と夫で代表の真行さん(71)だ。

 「H17・1 早田ひな」。クラブには、赤いペンで名前を書いた札が今も残されている。上部に記されたアルファベットと数字は、早田選手が初めて球を打った年月、2005(平成17)年1月を示したものだ。

 北九州市出身。4歳の時に姉と一緒にクラブを訪れた。最初に指導に当たったのは「女先生」の愛称で親しまれる千栄子さん。当初、早田選手は右手でラケットを持っていたが、右足を軸に片足跳びをする様子や、左足でボールを蹴るという本人の話を聞き、左手持ちを勧めた。

 するとフォームは固まり、ボールも安定して飛ぶように。現在の武器である強烈なフォアドライブの素地となった。素直な性格で、小学3年生のころに千栄子さんが「毎朝走るように」と提案すると、早田選手はすぐ実行した。

 クラブ内で全国レベルを目指す選手は、平日も毎日、午後6~9時に3時間練習する。早田選手は、母親が迎えに来る際に持って来る手作り弁当を帰りの車中で食べ、動画で試合や練習の反省点を確認。帰宅すると日々の練習や試合を記録する卓球ノートもしっかりつけていたという。

小学4年生ごろの早田ひな選手=石田千栄子さん提供

 クラブ内の一つ年上で、後に全日本社会人卓球選手権で優勝した井絢乃(あやの)選手(24)=中国電力=の存在も大きい。対戦しては負けてばかりで「どうして絢乃ちゃんに勝てんかね」。悔しくて練習は熱を帯びた。

 徐々に実力を付け、小4で全国大会3位、小6で全国大会準優勝。さらに中学1、2年で全国中学校卓球大会の女子シングルスを連覇した。2年時の決勝の相手は、後の東京五輪混合ダブルス金メダリスト、伊藤美誠選手(23)だった。

2020年の全日本卓球選手権で優勝後、「男先生」と呼ばれる石田真行さん(左)と写真に納まる早田ひな選手=石田千栄子さん提供

 五輪を目指せるところまで来ている――。千栄子さんや、クラブの「男先生」で福岡・希望が丘高卓球部総監督も務める真行さんらはそう見抜き、大手スポーツメーカーに勤めていた三男大輔さん(44)を専属コーチに充て、生活面も含めたサポート体制を構築した。

 同高に進学した16年の世界ジュニア選手権で団体優勝。20年の全日本選手権ではシングルス、ダブルスとも制した。21年東京五輪は補欠に回ったが、パリでついに代表の座を射止めた。

2020年の全日本卓球選手権で優勝し、後輩の子供たちと記念撮影する早田ひな選手(後列右から4人目)=石田千栄子さん提供

 全日本選手権など大会が終わると、早田選手はクラブに顔を出し、後輩たちに獲得したメダルを見せたり、記念撮影に応じたりする。「上の世代にお世話になったので、大きくなった今、下の子たちの面倒をみてくれるんですよ」と千栄子さんは成長を喜ぶ。

 五輪イヤーを控えたこの2年は姿を見せていないが、現在、クラブの小中学生を対象にしたコースには25人が在籍し、憧れの先輩の背中を追いかけている。

早田ひな選手が通った卓球クラブ「石田卓球N+」には「練習は不可能を可能にする」と書かれた横断幕が掲げられている=北九州市八幡西区で2024年7月20日午前11時23分、宮本勝行撮影

 目標に「金メダル」を公言する早田選手。千栄子さんが7月上旬、早田選手に無料通信アプリ「LINE(ライン)」で「晴れの舞台。思い切り暴れ回ってください」とメッセージを送ると、「最終調整して頑張ります」と力強い返信があったという。

 「本人の努力や環境があったから、今がある。パリでメダルを取ってくれれば。一番いい色だともっとうれしい」。メダルを手に後輩たちの待つクラブに帰ってくる日を、千栄子さんは待っている。【宮本勝行】

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