パリ・オリンピックが26日に開幕する。翌27日から始まるのが、2021年東京五輪で金メダル9個を獲得した日本の「お家芸」柔道だ。男子60キロ級に初出場する永山竜樹(28)=SBC湘南美容クリニック=は東京五輪出場をあと一歩で逃し、悔しい思いをしてきただけに、金メダル獲得に闘志を燃やす。母校の私立大成中高(愛知県一宮市)の恩師らは「普段通りの柔道をしてくれれば勝てる」とエールを送る。
東京五輪での活躍も期待されていた永山。だが、19年11月のグランドスラム・大阪決勝で大学の先輩でもあるライバル、高藤直寿(31)に敗れ、世界ランキング1位ながら代表の座を逃した。
4年後の23年12月、グランドスラム・東京決勝。相対したのは、あの時と同じ高藤だった。延長戦の末、得意の一本背負いが決まり、パリ五輪代表に内定した。永山は「19年の悔しい思いがあったからこそ、気持ちの差で勝てた」と振り返る。
北海道出身。地元の小学校を卒業後、大成中高に進学した。同校は全国中学校柔道大会で最多の4連覇(05~08年)を果たすなど強豪として知られていた。
入部当初は体重が40キロに満たない小柄な選手だった。当時の総監督兼中学男子監督の神谷兼正教頭(54)は「竜樹はかわいそうなくらい毎日投げられていた。6年間もつのかなと心配だった」と振り返る。
その一方、「どの選手よりやる気があり、黙々と取り組んでいたのが竜樹だった」。そんな永山に転機が訪れたのは中学3年の時だ。15、16歳が出場する世界カデ選手権の50キロ級で優勝した。永山は当時の心境を「優勝して自信がついた。初めて日の丸を付け、世界が見えてきた」と語る。
高校生になると、国体やジュニアの国際大会で優勝を重ね、めきめきと頭角を現した。当時の高校男子監督、石田輝也教諭(56)は「物静かでコツコツやる選手だった。自由練習で他の選手が休もうとする中、永山は全く休もうとする気配がなかった。『1本でも多く』を意識し、文句一つ言わずに練習していた」と話す。
実績を残し、名前が知れ渡るようになっても永山は変わらなかった。「天狗(てんぐ)になることはなく、常に挑戦者の気持ちを持っていた。だからこそ世界級の選手になれると思っていた」
永山は大成での6年間について「柔道漬けの毎日で、自分の柔道の芯を身につけた。『しっかり組んで一本を取る柔道』を磨いてきた」と話す。高校1年の時、同校出身の中井貴裕がロンドン五輪で入賞(男子81キロ級)、16年リオ五輪では1学年先輩の近藤亜美(女子48キロ級)が銅メダルを獲得したが、同校出身者で金メダリストはまだいない。「自分が初になりたい。それが恩返しになる」と意気込む。
神谷教頭は「懸念するのは初戦の入り」と言う。昔から入りが悪く、5月の世界選手権でも初戦敗退を喫した。「五輪でなくて良かった」とヒヤヒヤしたというが、永山からは「パリまでにやるべきことが明確になったのでしっかり準備します。パリではしっかり勝ちます!」と力強い連絡があった。そんな教え子について神谷教頭は「初戦のことも考えて準備して、普段通りの柔道をすれば勝てる」と期待を寄せる。
男子60キロ級は開幕直後から始まり、永山が勢いをつけたいところ。必然的にプレッシャーはかかるが、本人は「代表だからこそ味わえるプレッシャーも感謝しながら、力に変えるくらいの気持ちで戦いたい」と冷静だ。
試合のある27、28日、後輩らは中学総体愛知県大会の真っただ中。決勝は28日未明の予定だが、大成中3年でキャプテンの市丸心太郎さん(14)は「大会はあるが、起きて応援したい。先輩の活躍に僕たちも勇気をもらえる。金メダル目指して全力を尽くしてほしい」と熱い声援を送るつもりだ。【川瀬慎一朗】
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