2012年シーズンは巨人にとっては最悪のスタートだった。

このときに「一軍戦略コーチ」として加わったのが、現在、オイシックス新潟アルビレックス・ベースボール・クラブの監督を務める橋上秀樹さん。

著書『だから、野球は難しい』(扶桑社)から、当時“清武さんが引っ張ってきた人”という印象の強かった橋上さんが決めていたこと、そして、チームが低迷していたときに当時の巨人監督・原辰徳さんの決断を後押しした一言について一部抜粋・再編集して紹介する。

あいまいだった「一軍戦略コーチ」の立場

2012年シーズンから巨人の一軍戦略コーチとして始動することになったものの、首脳陣は当初、私とどうコミュニケーションをとったらいいのか迷っていたように思えた。

なにせ「清武(英利)さんが引っ張ってきた人物」というイメージが強かったからだが、私は清武さんと仲がいいわけではなかったし、そもそも前年の9月8日の新潟と巨人との試合後に、初めて顔合わせをした間柄でしかなかった。

だからといって、原監督を含めた首脳陣に遠慮をする必要はないと考えていた。

私は私で、どういった野球をやっていくべきか、指導者として初めて相対するセ・リーグの野球というものを、あらためて分析しながら、与えられた職務をまっとうしていこうと思っていた。

「一軍戦略コーチ」という肩書は球界初と言われていたが、チームとしての機能をスムーズに発揮するためにどんな役割を担うのかはあいまいだった。無理もない。

「戦略コーチ」を発案した清武さんはもう球団にいないこともあり、私に対する扱いが不明確なままだった。

ユニフォームは着ないでベンチ入り

そうしたなか、一つ私が決めたことがあった。それは、「ユニフォームを着ずにベンチ入りすること」だった。

背番号は73をもらっていたが、ベンチ入りするコーチの上限が決まっていること、さらに私がユニフォームを着ていないことで、首脳陣や選手たちが何かデータに関して質問したいことがあったときに、すぐに見つけられるのではないかと考えていたからだ。

野球は一球ごとに局面が大きく変わる。私に何か聞きたいと思っても、その場面が終わってしまえば、聞きたかったことが消えてしまうなんてこともしょっちゅうある。

だからこそ、私がユニフォームを着ないことで、「橋上はここにいるぞ」という存在を示すのに役に立つのではないかと思っていた。

実際に原監督は、「こちらが困ったことがあったら君に必ず質問をする。そのようなときは、私に一切遠慮せずに答えてほしい」と言ってくれたのだが、これは本当にありがたかった。

私自身、清武さんが引っ張ってくれた身であるということはいったん置いて、原さんの言葉からは「チームの勝利に最善を尽くすためにも、あらゆる力を結集させる」という指揮官の姿が見てとれた。

試合が進行するなかで、どんな作戦を講じればよいのかだけでなく、チームの戦力として「機能している選手」と「機能していない選手」はそれぞれ誰なのかといった部分まで、事細かに目を光らせてチェックすることを怠らなかった。

チームがどん底のとき監督が求めていた答え

いざ2012年シーズンが開幕すると、巨人は連敗に連敗を重ね、最悪のスタートとなった。

ヤクルトとの開幕戦を完封負けで落とし、1勝2敗で負け越すと、続くマツダスタジアムでの広島戦は3連敗、甲子園での阪神戦も1勝2敗とまったくいいところがなかった。

さらに5勝11敗1分けで迎えた神宮球場でのヤクルト3連戦で3連敗を喫し、借金9で最下位に低迷した。

神宮で3連敗を喫した試合後、原監督の号令のもと、首脳陣全員が集まって緊急ミーティングを行うことになった。

「見ての通り、今のチームはどん底の状態にいる。みんなで知恵を出し合って、打開策を講じたい。遠慮なく意見を言ってほしい」

原監督はそう言ったのだが、あるコーチが、「打順の入れ替えを検討したほうがいい」と提案したかと思えば、ほかのあるコーチからは、「セカンドのスタメンに別の選手を入れるべき」という主張が。

けれども、どのコーチの意見に対しても、原監督は、「うーん…」と首をひねったままでいる。

その姿を見て、「原さんが求めている答えではないんだな」ということが感じ取れた。

そのときである。原監督から、「橋上、君はどう思うんだ?」と聞かれたので、はっきりとこう答えた。

「小笠原(道大)の起用法に悩んでいるのではないですか?」

直後に原監督はうなずいて、「よく言ってくれた。実はオレも小笠原の起用法に悩んでいたんだ。たしかに彼はチームを3連覇に導いてくれた功労者だが、君の言葉で踏ん切りがついた。今後は小笠原の起用法を見直そうじゃないか」

そう言ってくれたのだ。

小笠原の処遇に悩んでいた原監督

小笠原は日本ハムをパ・リーグ優勝、日本一に導く活躍を見せた2006年オフに、FA権を行使。

その際、原監督自ら出馬して獲得に動いた経緯がある。原監督が言うように、2007年からのセ・リーグ3連覇に加えて、09年の日本一は彼なくして語れない。

だが、前年の2011年シーズンから成績が下降。この年から使用されたボール(飛距離を抑えた統一球)によって、小笠原の打撃成績は下降しているとも言われていた。

小笠原道大はチームを3連覇に導いた功労者(写真:Getty Images)
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しかし、37歳になった彼の衰えによる影響もあったのではないかと、私は考えていた。

そうしたなか、2012年シーズンの小笠原は、開幕を「7番・ファースト」で迎えたのだが、調子が一向に上がってくる気配がない。

これまでチームに貢献してきた実績があるうえに、不振を打破するために懸命にもがき続ける小笠原の姿を見ていると、おいそれとは外せない。

それゆえに原監督も迷いに迷い続けていたのだろう。

さらに追い打ちをかけるように、チームも低迷したままでいる。

仮にチーム成績が好調であれば、下位の打順で起用しながら復調を待つというやり方があったかもしれないが、残念ながら時間的な猶予はない。

原監督の覚悟と決断

現状を打破する効果的な方法は何があるのか。

原監督のなかでは、「小笠原をスタメンから外す」ことを決断しようと考えたのだが、踏ん切りをつけられずにいた。

そこへ私が小笠原の起用法を指摘したことで、覚悟を決めることができたのだ。

その後、小笠原は4月26日と30日に8番で起用された。

しかし、それ以降は9月11日から15日までスタメンに名を連ねたのを最後に、残りの試合においてスタメンで起用されることはなかった。

この年、巨人は3年ぶり34回目のセ・リーグ制覇に加えて、22回目の日本一を達成したが、決して安泰だったとは言えないシーズンだった。

前年にそれまで4番を打ってチームに貢献してくれたラミレスがチームを去り、この年は最後まで小笠原の状態が浮上することはなかった。

両者とも衰えによる不振だったことは明白だったが、原監督が「小笠原をスタメンから外して新たな打線を形成していく」と覚悟を決めたことで、シーズンが終わる頃には「阿部慎之助のチーム」へと変貌を遂げることができたのである。

『だから、野球は難しい』(扶桑社)

橋上秀樹
元プロ野球選手。ヤクルトに入団後、日本ハム、阪神と渡り歩き2000年に引退。その後、コーチなどを務め、2021年から新潟アルビレックス・ベースボール・クラブの監督

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