シリーズでお伝えしている「若楠国体の思い出」
今回は身体障害者スポーツ大会・若楠大会です。「佐賀方式」と呼ばれる大会運営の変更など知られざるエピソードもありました。

にこやかに参加者と会話される現在の上皇さまと上皇后さま。
当時は、皇太子と皇太子妃でした。
佐賀県で「全国身体障害者スポーツ大会」が開かれたのは今から約半世紀前の1976年11月。
2日間、陸上や水泳、車いすバスケットボールなど6つの競技に全国から約840人が参加しました。

【大野さん】
「私にとっては青春の1ページですね。若い人と1年間苦労して作り上げて、それが今でも残っているみたいな大会で心に残るすばらしい大会です」

佐賀市の県公文書館で今年4月から展示されている企画展。
当時の広報紙などを中心に40点あまりが展示されています。
この展示会を特別な思いをもって眺めているグループがいます。

【太田さん】
「これ、大会の金メダル。入賞者の1位、2位、3位。頑張った人、敢闘賞。当時一生に1回だったもん、出れるのが。だから敢闘賞って記念になるものが」

身障者スポーツ大会の開会式・閉会式の準備や運営を担当した元県職員や教員です。
若楠国体が終わり、達成感から熱が冷めるタイミングでもあり、観客動員などの伸び悩みも心配されましたが杞憂に終わったといいます。

【土井さん】
「私は式典の担当で開会式当日完全に会場に張り付いていたけどお客さんがぞろぞろ入って見えるので特別な招待者かと最初思った。ところが途中で聞いたら各市町村から観客がどんどん来ているという話になって。下の方も入りきれなくなった」

開会式・閉会式など式典を担当した元県職員の土井哲夫さん。
開会式でのあるセレモニーが忘れられないといいます。

【土井さん】
「来賓に向かって1万個ふわーっと一斉に流れて行って。目には完全に焼き付いています」

こちらがその時の映像。
遠目ではありますが、風船が一斉に空を舞っているのが分かります。

【土井さん】
「国体の式典は風船なかったんですよ。鳩はあったけど。天気はすごくよかった。快晴でした」

同じく元県職員で当時の様子を笑顔で話す太田勘さん。
実は大会で悪しき風習となっていた問題にメスを入れました。

【太田さん】
「大会の申し込み締め切り6月30日とするでしょう。その期限を守らないんですよ。県と政令市が守らないのはびっくりした」

太田さんは上司に相談し申し込み期限を守れなかった場合は棄権にするという通知を全国に出しました。
のちにそれは「佐賀方式」と呼ばれたそうです。

【太田さん】
「そしたらある県は夜行列車で飛んできた。それがバーッて全国に広まって佐賀県は今までと違う。福祉の大会ではないスポーツ大会ということでルール通りやるぞって」

大会期間中、手話通訳を担当した元教員の大野良子さん、通訳としての役割に加えて短期間で通訳ができる人を育成するという大きなミッションがありました。
大学を卒業して間もない時期、手話を教えたのは年の近い学生たちでした。

【大野さん】
「とにかく相手の立場に立ちなさい。相手の気持ちをわかろうとしなさい。分かったふりだけはするな。あなたたちは分からないんだからっていうのを、ずっと言って聞かせてたんですよ」

そして、広報業務や選手の宿泊などを担当した荒木文雄さんは大会がきっかけで身障者スポーツとかかわりを持つようになりました。
今度の大会にも大野さんとともにボランティアとして参加します。

【荒木さん】
「今年は全障スポに2回目関わることができたということでまあそれもありがたいなって思っているところ。今後も人生の生活の一部にやっていきたいなと思っている」

当時大会運営にかかわったメンバーは年に1回、大会が開かれた11月に集合し思い出話に花を咲かせています。

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