今夏のパリ・オリンピックの女子マラソンに出場する前田穂南(ほなみ)選手(27)=天満屋=は、レース前に具体的な目標タイムを決して口にしない。日本記録を樹立した今年1月の大阪国際女子マラソンでも、大会前の記者会見で目標を「アレ」と表現し、話題となった。長年近くで支えてきた家族やコーチは、その姿に前田選手の変化と強さを感じている。
前田選手は、初めての五輪だった2021年の東京では33位。新型コロナウイルスの影響で大会自体が延期になるなど難しい調整を強いられ、故障も相次いで思うようなレースができなかった。
母麻里さん(50)は、東京五輪直後に前田選手が実家に帰ってきた時のことを鮮明に覚えている。「辞めたい」と涙を流していた。「普段は泣かずに我慢するタイプだけど、私が『泣いていいよ』と言うと、もうワーッと泣いて……」。陸上を始めて以来、辞めたいと漏らしたのは初めてのことだった。
ただ、ひとしきり泣いた後、前田選手は「練習してくる」と言い、そのまま着替えて家を出て行った。麻里さんは「走ることが好きということを思い出したみたい」と振り返る。
その後も苦しい時はあった。23年10月の五輪代表選考会「マラソングランドチャンピオンシップ(MGC)」では7位に終わり、自らパリへの切符をつかみ取ることはできなかった。ただ麻里さんの目には、そこから前田選手が変わったように見えた。「子供の頃は自分が好きだから走っていたけど、いつの間にか『結果を出さなきゃ』みたいなことを言うようになっていた。でもMGCがダメで、もう一度『自分のために走る』というスタンスに変わった感じがする」
迎えた今年1月の大阪国際女子マラソン。前年のプロ野球で日本一となった阪神の岡田彰布監督と同じように、レース前に目標を「アレ」と表現し、2時間18分59秒で19年ぶりに日本記録を更新した。レース後には、「アレ」が「日本記録更新」だったことを明かした。
長年、前田選手を指導する天満屋の武冨豊専任コーチ(70)は「『アレ』という言葉が出て、これで大丈夫だと思った。余分なものを抱えることをしなくなり、心のゆとりを持てるようになったんだと思う」と振り返る。父哲宏(あきひろ)さん(50)も「笑顔も増えたし、何事に対しても柔軟性が出てきた感じを受ける」と変化を感じている。
前田選手は2日、岡山市内でパリ・オリンピックに向けた記者会見を開き、「自分のパフォーマンスが最大限に発揮できるように、良い状態でスタートラインに立ってしっかり走りたい」と決意を語った。一方、具体的な目標については秘密の姿勢を貫き、「海外の選手たちと一緒に走ることはすごく貴重な経験にもなると思うので、すごく楽しみ」とほほ笑んだ。
秘めたる胸の内は、2度目の五輪で会心のレースを披露した後に明かされることになりそうだ。【平本泰章】
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