1972年の札幌冬季オリンピックで日本人初の冬季五輪金メダリストとなり、4月23日に80歳で亡くなった元スキージャンプ選手の笠谷幸生さんのお別れの会が26日、札幌市の札幌オリンピックミュージアムで開かれた。ジャンプ関係者や親交のあった人ら約100人が参列し、日本ジャンプ界をけん引した笠谷さんの在りし日をしのんだ。
大江村(現仁木町)出身。余市高(現余市紅志高)から明治大に進み、64年インスブルック五輪に出場した。札幌五輪のスキージャンプ70メートル(現ノーマルヒル)で表彰台を独占した「日の丸飛行隊」の中心だった。
お別れの会は、ともに札幌五輪の舞台に立った板垣宏志さんと益子峰行さんのほか、長野五輪スキージャンプ男子団体金メダリストの原田雅彦・全日本スキー連盟副会長、親交のあった歌手の松山千春さんらが出席した。
司会は笠谷さんの現役時代にスキー板のワックスマンなどを担い、引退後に個人マネジャーになったスポーツライターの伊藤龍治さん。札幌五輪直前に欧州の大会を途中で辞退して帰国した際、「オレだって餅食いてえべや」と話したエピソードをはじめ笠谷さんにまつわる秘話を笑いを交えて披露した。
原田さんは弔辞で、「私も憧れて、ジャンプを始めるきっかけになった方。引退後も後進の道を切り開いた。あなたのジャンプ界に対する思いを継承し、選手たちにとってよりよい環境づくりに努めて参ります」と述べた。新川高校吹奏楽部の生徒が札幌五輪のテーマソング「虹と雪のバラード」などを演奏する中、参列者は献花し、別れを惜しんだ。【片野裕之】
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