16日未明の地震で起きた大規模な土砂崩れ=熊本県南阿蘇村で2016年4月16日午前8時53分、本社機「希望」から梅村直承撮影

 熊本県を中心に大きな被害が出た熊本地震は14日で発生から8年となります。どんな地震で、何を教訓として残したのでしょう。被災地の現状を含め、説明します。

 ――熊本地震ってどんな地震だったの?

 ◆最大震度7の激しい揺れが2度、連続して熊本県を襲い、熊本、大分の両県で災害関連死を含め276人の犠牲者を出した地震です。2016年4月14日午後9時26分の「前震」、約28時間後の16日午前1時25分に起きた「本震」でそれぞれ震度7を観測しました。同じ地域で連続して震度7を観測するのは、初めてのことでした。震度7がどれぐらいの揺れかというと、人は立っていることができず、はわないと動けないくらいとされていて、飛ばされることもあるといわれています。

 地震の規模(エネルギー)を示すマグニチュード(M)は前震が6・5、本震は7・3でした。0・8しか差がないように見えますが、本震のエネルギーは前震の約16倍大きく、1995年の阪神大震災と同じ規模です。熊本県を南北に走る「日奈久(ひなぐ)断層帯」が前震を、東西に延びる「布田川(ふたがわ)断層帯」が本震を引き起こしたと考えられています。

熊本地震で石垣や屋根が壊れた熊本城=熊本市中央区で2016年4月15日午前6時47分、本社ヘリから矢頭智剛撮影

 ――そんなに大きな揺れだったら被害も大きかったろうね。

 ◆熊本県のまとめでは、約20万棟の住宅が被害を受け、このうち約4万3000棟が全壊または半壊しました。前震と本震の両方で震度7の揺れに襲われた益城町では約6割、本震で震度7を観測した西原村では半数以上の住宅が全半壊しています。道路や鉄道、水道、病院、学校といった市民生活に欠かせない施設・設備も相次いで壊れ、被害額は約3・8兆円に上りました。

 シンボルの熊本城も大きな被害を受け、曲線美が自慢の石垣が崩れたり、天守閣の瓦が落ちたりしました。雄大な自然が人気の阿蘇地域は、熊本市側と結ぶ国道にかかっていた「阿蘇大橋」が大規模な土砂崩れで崩落し、集落は孤立しました。

 ――被災した人たちは大変な思いをしたのでは。

熊本地震(2016年4月14日、同16日)で大きな被害のあった熊本県益城町の被災現場=熊本県益城町で16年4月17日、高尾具成撮影

 ◆災害直後は熊本県内で最大約18万4000人もの被災者が避難所に身を寄せました。これは県民の10人に1人の割合です。それ以外にも車の中に避難する「車中泊」をする被災者が大勢いて、行政が正確な数を把握するのが難しい状況となりました。

 車中泊が多かった背景には「2度も大きな地震があったのだから、また地震が起きるかもしれない」と、倒壊の危険がある建物内を避けようとした市民の恐怖心があります。窮屈な車の中では家の中のようにゆっくりと過ごすことができず、被災者の心身は疲労していきました。避難所で過ごしていた被災者も収まらない余震や、家の損壊で自宅に帰ることができず、ストレスが高まっていきました。

 苦しい避難生活の中で続出したのが災害関連死でした。建物の下敷きになるなど直接的な被害で亡くなったのではなく、疲労やストレスで体調が悪化して亡くなった被災者のことです。熊本地震で犠牲になった276人のうち、221人は災害関連死で、特にお年寄りが亡くなるケースが相次ぎました。

サンタクロースの衣装で登場し仮設団地を沸かせたくまモン=熊本県益城町で2016年12月23日午後1時42分、中里顕撮影

 ――被災した人たちはどうやって普段の生活を取り戻したの?

 ◆16年11月までにプレハブや木造の仮設住宅4303戸が整備されました。またアパートなどを借り上げる「みなし仮設」や公営住宅に移る被災者もいて、最大で2万255世帯4万7800人が仮住まいでの暮らしを送りました。益城町にできた「テクノ仮設団地」(516戸)は、被災者1334人が暮らした最大級の仮設団地で、スーパーや飲食店も出店しました。それぞれの仮設団地では県のPRキャラクター「くまモン」のショーなど復興支援イベントが数多く企画され、被災者は徐々に笑顔を取り戻していきました。

 生活基盤が整っていく中で、自宅を再建する被災者も見られるようになりました。一方、お年寄りらは新たに家を建てるのが難しかったので、長く暮らすことを想定した災害公営住宅(復興住宅)に移っていきました。生活の再建方法が分かれたことで課題として出てきたのが、地震前にあった人と人の結びつきをどう維持するのかという問題です。地震前は近所でよく話していた人たちが、お互い別々の地域に住むようになり、接点が減ってしまったのです。復興住宅で誰にもみとられずに亡くなる人もいて、被災者の孤立をどう防ぐかは今も課題として残り続けています。

開所式があった、半導体受託生産世界最大手「TSMC」の子会社で、熊本県菊陽町の工場を運営する「JASM」=熊本県菊陽町で2024年2月24日午後5時35分、矢頭智剛撮影

 ――今の被災地はどうなっているの?

 ◆国は発生直後に7780億円の補正予算を組み、被災者支援やインフラの復旧を進めました。崩落した阿蘇大橋は約600メートル南側に新阿蘇大橋として架け替えられ、21年3月に開通、観光用の「トロッコ列車」が人気の南阿蘇鉄道も23年7月に全線で運行を再開しています。市中心部やJR熊本駅前には、大型の商業施設もできました。熊本城は石垣の復旧が続いていますが、天守閣の瓦のふき替えや、しゃちほこの新調も済み、インバウンド(訪日観光客)ら多くの人でにぎわっています。24年には菊陽町で世界的半導体メーカー「TSMC」(台湾積体電路製造)の工場が開所し、熊本は日本経済で重要な役割を果たすことになりました。

 ただ新しい建物や、目立つ産業を呼び込むことが「復興」と言えるのか、市民の間でも疑問があることも事実です。地震前からの商業地では、熊本市中心部でさえも空きテナントが目立ち、熊本地震の記憶がきちんと後世に伝わるのかについても危機感を持つ人がいます。熊本が本当に市民目線の復興を続けているのか、問われ続けているのです。

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