「私の友人、小川さんへ。永遠に友達でいましょう」――。第二次世界大戦でフィリピンに出征した元陸軍中尉の小川亨さん(故人)=千葉県芝山町菱田出身=の自宅から、裏面に英文のメッセージがしたためられた写真が見つかった。終戦後に出会ったフィリピン兵から贈られたと見られ、「1946年12月15日」とも記されていた。研究者は「元敵国同士でありながら、立場を超えた友情を示す貴重な資料だ」と話している。【小林多美子】
メッセージが書かれていたのは、フィリピン人とみられる男性12人の集合写真。裏面の右上部には「プエルト プリンセッサ パワラン」の地名と「15 december46」とあり、1946年12月15日に書かれたと思われる。文面は「To my Friend Ogawa San(私の友人、おがわさんへ)」「In This Atomatic age let′s be friend forever(この原子力の時代に、永遠に友達でいましょう)」。フィリピン兵の自宅と思われる住所も記されており、文末には「your friend(あなたの友人)」と「ペテロ・ゴング」との名があった。
亨さんは1918年、農家の長男として誕生。38年に陸軍に入り、旧満州(現中国東北部)に出征。42年に一度除隊したが、44年6月に再召集され、同8月にはフィリピン・パラワン島に赴いた。
亨さんがフィリピンでの体験などをつづった手記「闘魂録」によると、45年2月、同島に米軍が上陸し、亨さんの部隊はジャングルに退却。亨さんを隊長に10人で行動を共にしたが、食糧不足で衰弱した部下たちはマラリアにかかり次々と亡くなった。一人残された亨さんは現地のゲリラに捕まり、脇腹に銃弾を受けながら逃げた。亨さんの次男・裕さん(73)は、亨さんの左脇腹には穴のような傷痕が残されていたと証言する。
フィリピン軍の憲兵隊に引き渡された亨さんは、同島のプエルト・プリンセサにある憲兵の兵舎に収容される。写真はここで撮影されたとみられる。
収容所で共にクリスマス祝う
手記によると、46年12月25日に、収容所で日本兵とフィリピン兵の合同でクリスマスの演芸会が開かれている。小川さんは「忘れもしない懐かしの思い出」とし、日本側は剣道や柔道の型、どじょうすくいを披露したとつづっている。その後、マニラの捕虜収容所に移り、翌年に帰国したとされている。
写真は、小川一家の集合写真などが収められているアルバムに残されていた。計9枚あり、中には軍服を着て銃を持った姿もあった。裕さんは写真の存在は知っていたが、今年8月にアルバムなどを整理した際、ページにはさまれていた写真の裏面にメッセージが書かれているのを見つけた。
裕さんによると、亨さんは戦場での体験を積極的には語らなかったが、「フィリピンをもう一度訪ねたい」と話していたという。その願いはかなわず、1984年に67歳で亡くなった。裕さんは「息子には厳しい人だったが、明るくて社交的だった」としのぶ。
この写真について、米兵や日本兵捕虜の研究をしている全国組織「POW研究会」会員で、県内で戦争捕虜の調査をしている久野一郎さんは、メッセージにある「In This Atomic age」は、「たとえ原爆で相手を制圧するようなこの時代にあっても」という趣旨だと解釈する。「書かれたのは原爆が投下された直後で、核の脅威が生々しく感じられる。そうした時代でも、永遠の絆を結ぼうと呼びかけるメッセージは、非常に重い意味がある」と話している。
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