周囲を山に囲まれた小さな集落には黒光りする瓦の民家が点在し、傾斜地を利用した田んぼがある。田植え前の初夏、朝日が差すと鏡のように周りの風景を映し出す水面など、季節ごとに棚田ならではの風情を醸し出していた。
だが今、水の抜けた田んぼの多くでひびが見られ、雑草が生えている。民家の屋根には、ところどころで雨よけのブルーシートがかぶせられている。この光景は雑草の丈が伸びたこと以外、1年近く変わらない。
ここ、石川県輪島市町野町金蔵(かなくら)は明治時代、500人近くが暮らしていた。だが、少子高齢化の波が押し寄せ、2023年末には53世帯95人に減っていた。
限界集落ながら、地元ではブランド米の「金蔵米」を栽培するなどして、まちおこしに力を入れてきた。
ところが、今年の元日だった。輪島市は最大で震度7の激しい揺れに襲われ、金蔵でも土砂崩れや家屋の倒壊が相次いだ。
約20世帯は、90キロ以上離れた県南部の金沢市や石川県白山市などに避難した。地震から5カ月後の5月末には約6キロ離れた輪島市町野町東大野のグラウンドに仮設住宅が完成し、16世帯21人が移った。
「金蔵に仮設住宅を建設するよう市に要望していたのに、実現しなかった。それで住民がバラバラになってしまった」
金蔵の区長を務める井池光信さん(69)はそう嘆く。
住民が古里を離れ、つらい思いをさせたくない――。そんな気持ちから、災害で住む場所を失った人々が暮らす「災害公営住宅」は、金蔵に整備してもらうことが重要だと考えた。
住民と話し合いを重ね、廃校になった小学校跡に約10世帯が住めるような住宅を要望することで意見がまとまった。井池さんは、東日本大震災で復興に携わった専門家に助言をもらいながら、市に対応を呼びかけ続けている。
「仮設住宅と同じことをまた繰り返したくない。高齢の1人暮らしの方もおいでになる。気心の知れた人たちと過ごせる場所として、金蔵にできるだけ早く建ててもらいたい。喫緊の課題です」
仮設住宅に移った16世帯21人が疎遠にならないよう、金蔵では週に1度、カフェや体操の会が催され、仮設住宅の住民も車に乗って訪れていた。「元気しとる?」。参加者はパンケーキを食べながら、和やかに過ごしていた。
復興に踏み出そうとしている中で追い打ちを掛けたのが、特別警報が出された9月の豪雨だった。
金蔵と仮設住宅のある輪島市町野町東大野を結ぶ県道が土砂崩れで埋まってしまった。これまでは車で10分弱で着いた道のりが、回り道で30分以上かかる。
そのせいで、年内に仮設道路が開通する予定だが、仮設住宅に身を寄せた住民はこの3カ月間、カフェや体操の会に一度も来ていないという。
金蔵での災害公営住宅の建設も進展をみせていない。
井池さんらの要望について、市まちづくり推進課の上畠茂雄課長は「金蔵の要望が全くだめだというわけではなく、状況に応じて話し合っていきたい」と話しつつ、厳しい姿勢も見せている。
仮設住宅と異なり、賃料で維持管理される災害公営住宅では、空室になると次の入居者を募る必要がある。となると、利便性の高い市街地に建設する方が望ましい。
さらに、上畠課長は次のような理由も付け加えた。
「金蔵は2度の災害でいずれも孤立した。水道などのインフラの復旧が早くできるのは、やはり山間部の過疎地よりも市街地」
「地域のコミュニティーを維持するには、金蔵以外で建設した災害公営住宅に集団で移転してもらって、そこで支援するのが現実的だ」
今月21日、豪雨から3カ月を迎えた。この状況に、井池さんは苦しい胸のうちを明かす。
「集落にいれば草を刈ったり、ご近所さんに会いに行ったりと自然と外に出ていた人が、仮設住宅では周りに迷惑をかけないようにとひっそり暮らしており、体力が落ちてきている。災害で風景が変わるのは仕方ないが、人の生活が変わってしまうのはつらい」【国本ようこ】
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