熊本県の八代海で夏の夜、海上に無数の光が連なって見える「不知火(しらぬい)」。不思議な自然現象の調査・研究に2018年から挑む県立宇土(うと)高校(宇土市)の科学部地学班に10月上旬、不知火に関する江戸時代の文献などの貴重な資料が広島から届いた。高校生たちの奮闘を知り、資料を送ったのは昭和時代に謎の解明に取り組んだ理学博士(故人)の孫。不知火研究がつないだ先人との縁に、生徒たちは意欲を新たにする。
不知火は旧暦8月1日(新暦で8月下旬~9月の秋分ごろ)前後の夜間、海上でいさり火などの光が横に連なってゆらめく現象。日本書紀にも記述があり、科学的には光源などが左右に反転する「側方蜃気楼(しんきろう)」とされる。実際の風景が下方に反転して見える「下位蜃気楼」は各地で見られるが、「側方」は世界的に観測例がほとんどない。
別名「不知火海」と呼ばれる八代海でも近年は夜間の漁がなくなったことなどもあり、1990年代以降は公的な観測記録が途絶えていた。宇土高の地学班は18年に研究を始め、19年からは出現する時期を狙って観測を続ける。今夏は八代漁業協同組合(同県八代市)の協力でパネル型LED(発光ダイオード)を積んだ船3隻を海上に出してもらった結果、9月3日未明に一つの光源が横方向に分かれる様子を、望遠カメラで撮影した。
そのニュースを偶然知って、地学班の生徒たちに「思わず手紙を書いた」というのが広島市の松田日菜子さん(71)。松田さんの祖父、宮西通可(みちか)さん(1892~1962年)は昭和初期に不知火現象の解明に取り組んだ理学博士だった。
宮西さんは京都帝国大(現・京都大)の理学部で物理学を学び、1933年に熊本高等工業学校(現・熊本大工学部)の教授に。不知火現象の研究を始め、38年に広島高等工業学校(現・広島大工学部)の教授に転じた後も熊本へ通って研究を続けた。
不知火現象については夜光虫やプランクトンといった生物による発光説や、星の光が投影されているという説があったが、宮西さんは再現実験などからいさり火などの光源が屈折して起きるとの考察を発表。43年に「不知火の研究」を出版した。
松田さんは小学3年まで宮西さんと共に暮らした。宮西さんが亡くなった後、祖母から聞いた話によると、神秘的な現象として伝えられてきた不知火現象を科学的に解明しようとする試みは当初、地元の人々から理解を得られず、宮西さんは苦労したという。研究が進むにつれ、観測地の近くで寝泊まりする場所を地域の人が貸してくれるなど協力を得られるようになった。「熊本の方はみんないい方ばっかり」。祖母はそう繰り返していた。
そんな祖父ゆかりの地で奮闘する高校生たちの研究に役立ててもらおうと、松田さんは手紙に続き、宮西さんが残した資料を段ボール箱に詰めて宇土高に送った。
江戸時代後期に出版されたとみられる「不知火考」という題名の文献や宮西さんの著書「不知火の研究」など数点。45年8月の原爆投下で広島市内にいた宮西さんは被爆したが、こうした資料は焼けずに残ったという。
不知火考には漢文や崩し字で記された文章の他、干拓が進む前の八代海で不知火が連なる状況を説明した図、それを楽しむ人々の様子を描いた絵などが収録されている。地学班は早速、10月末にあった研究発表大会でこうした絵図を紹介。今後は文章の内容についても解読を進める。
宇土高2年で科学部長の米田(こめだ)直人さん(17)は「宮西さんは遠い存在の方だと思っていたので、(松田さんから)手紙が届いた時はびっくりした。昔の資料はなかなか手に入りにくく大変貴重。活用させていただき、不知火の謎を明らかにしていきたい」と意気込む。
松田さんは「自然現象の謎を解明しようとする高校生たちの姿勢は、祖父ともつながるものがある。根気のいる研究だと思うが、不知火が忘れられることなく、科学的なものだと伝わってほしい」とエールを送る。【山崎あずさ】
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