核兵器は人類と共存できないと伝えたい――。ノルウェー・オスロで10日午後1時(日本時間10日午後9時)に開かれる日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)へのノーベル平和賞授賞式。演説する田中熙巳(てるみ)代表委員(92)は自身の半生をかけて追い求めてきた核兵器廃絶に一歩でも近づくため、世界に向けてメッセージを発信する。
「広島、長崎の被爆者のことを広めたい。理解してもらえれば大きな運動になって、核兵器をなくす道筋をつくれるだろう」。出発前に東京都内で記者会見した田中さんは授賞式への思いをそう語った。
10月11日に平和賞受賞が決まってから、生活は「めまぐるしくなった」。1人暮らしをする埼玉県新座市の自宅で演説内容を考え、国内外のメディアの取材に応じた。疲労が重なったためだろうか「初めて風邪で病院を受診した」という。
演説の原稿執筆に当たっては「周りがいろいろプレッシャーをかける。気が重くなって、完成したと思ったら夢だったこともあった」と振り返る。内容は日本被団協の活動の歴史を中心に、自身の体験も「4分の1くらい」盛り込んだ。事務局や他の役員らの協力も得ながら1カ月以上かけて完成させた。
田中さんは日本被団協の事務局長を通算20年務め、米ニューヨークの国連本部で原爆展を実現させるなど活動を長年支えてきた。その原点は1945年8月9日の体験にある。
軍人だった父が亡くなり、旧満州(現中国東北部)から長崎に引っ越して旧制中学に通っていた13歳のとき、爆心地から約3・2キロの自宅で被爆した。親族を捜して母と爆心地付近に入り、焼け死んだ人や水を求めて川で息絶えた人たちの無数の遺体を目にした。伯母ら親族5人を失った。
理不尽さは「あの日」だけで終わらなかった。頼れる人がいない一家の暮らしは経済的に困窮し、預金封鎖も追い打ちをかけた。
その後、大学進学を目指して上京。働きながら毎年大学受験に挑み、東京理科大に入学した。当時は被爆者という意識は薄かったが、長崎の同級生が白血病で亡くなったことをきっかけに被爆者健康手帳を取得した。
卒業後は東北大の研究者となり、宮城県の被爆者団体の扉をたたいた。東北大を定年退官すると、日本被団協の活動に本腰を入れるため埼玉県に移り住んだ。事務局長を経て2017年に代表委員に就任した。
卒寿を過ぎても意欲は衰えない。田中さんは今春、被爆証言をしながら世界各地に寄港する船に約1カ月乗船した。主催したNGO「ピースボート」スタッフの橋本舞さん(32)は「冗談がお好きで、みんなから『てるみさん』と親しまれていた。寄港先の南アフリカで人権団体のメンバーと対話した際は、言葉に力強さがあった」と話す。
若い世代に向けてオンライン会議も積極的に活用し、時にはつえを片手に署名提出のために東京・永田町に出向く。政治家が非核三原則の見直しに言及する度に危機感と憤りをあらわにしてきた。帰国後、一段落したら石破茂首相と面会する予定で、日本政府が核兵器廃絶に積極的に取り組むよう訴えるつもりだ。
ノーベル平和賞の授賞式には7年前にも出席したことがあった。17年のNGO「核兵器廃絶国際キャンペーン」(ICAN)への授賞式。カナダ在住の被爆者、サーロー節子さん(92)の演説を間近で聞いた。演説中、田中さんは涙をこらえながら、核兵器がこの世からなくなるまで力を尽くそうと誓い合い、道半ばで逝った先人や仲間たちの姿を思い浮かべた。
その場所に今度は田中さんが立つ。「みんなの努力がここまで実ったよ。完成はしていないけれど、運動はこれまでと違った大きな広がりを持ってやっていけそうだ」。そう天国に向かって報告するつもりだ。
【椋田佳代】
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