ヒロシマを伝える13枚の絵が世界に発信される。日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)のノーベル平和賞授賞式(10日)に合わせて現地ノルウェー・オスロで、被爆の惨状を伝える絵が紹介される。被爆者たちから半世紀にわたり寄せられた約5000枚から選ばれた。
「人類全体への遺言」。1970年代半ば、原爆体験を描いた絵を募った最初のキャンペーンに協力した広島の反戦画家・四國五郎(1924~2014年)は後に、集まった数多くの絵をそう呼んだ。あの体験を後の世代に伝えなければ、死んでも死にきれない。技法を超える被爆者の気迫が、絵を見る人たちの感情を揺さぶり、被爆の実相を追体験させる。
広島市の原爆資料館が所蔵する「原爆の絵」は約5000枚。館内で遺品や被爆資料とともに展示されている。
今回、このうち13枚について、画像データをオスロにあるノーベル平和センターに提供した。センターでは、データをポストカードサイズに印刷し、来場者が手に取って惨状を実感できるよう、11日から約1年にわたり紹介する。
原爆資料館作成の図録「原爆の絵 ヒロシマを伝える」(岩波書店)には、絵の収集経緯が記されている。74年5月、当時77歳の小林岩吉さんが1枚の絵を持参して広島のNHKを訪れた。原爆が投下された8月6日の夕方、川べりで目撃した光景を描いていた。受け取ったNHKが「市民の手で原爆の絵を残そう」と呼びかけを始めると、2年間で2225枚が集まった。
このとき趣旨に賛同してテレビ番組に出演し、記録画の描き方を説明したのが四國だった。
「父にとって絵は『伝える』ための手段でした。稚拙でも構わない。絵でうまく描けなければ、文章を書き込んで補足すればいい。表現手法を総動員し、とにかく伝えることを訴えたんです」
四國の長男、光さん(68)=大阪府吹田市=は、色あせた当時の番組台本3冊を保管している。父の遺品にあったもので「絵の上手下手をこえた 真実の尊さがここにある」などと書き込みが残る。寄せられた絵は大小バラバラで、カレンダーの裏に描かれたものもあり、道具も絵筆やペン、クレヨンなどさまざまだったという。
四國は当初、キャンペーンに関わることをためらっていた。原爆投下時は陸軍の兵士で旧満州(現中国東北部)におり、広島の惨状を知ったのは3年間のシベリア抑留から帰国した後だった。「集まった膨大な枚数の全てに目を通したのでしょう。被爆者でないことに遠慮があった父の中で何かが変わり、原爆を堂々と題材にするようになります」。四國が挿絵を描いて代表作となった絵本「おこりじぞう」(金の星社)の刊行は79年だった。
02年に広島、長崎両市とNHKなどは共同で絵を再募集し、その後も被爆者から絵は寄せられている。父の遺志を継いで著述活動などを続ける光さんは「遺言とは後世に伝えられて初めて意味がある。こんな絵は二度と描かれてはならず、世界に発信し、もっともっと活用してほしい」と語る。
原爆資料館に寄せられた絵はインターネット上の「平和データベース」でも公開している。地名、学校や社寺など施設名、軍の部隊や企業など所属、避難や救護などの状況に分類され、キーワード検索ができる。
長崎・浦上天守堂の写真も
ノーベル平和センターでは、45年8月9日の長崎への原爆投下で倒壊した浦上天主堂(長崎市)の写真も展示される。写真家の林重男氏(1918~2002年)が撮ったもので、レンガ造りの壁面をわずかに残して破壊された教会の姿は原爆の威力を物語る。撮影時期は45年10月とみられる。長崎原爆資料館が所蔵し、長崎市がノーベル平和センターに画像を提供した。【宇城昇、日向米華】
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