瀬戸内海をバックに両手を広げて四国全体を見渡す中野武営の銅像=高松市で2024年10月30日午前10時33分、佐々木雅彦撮影

 明治時代のある時期、四国は現在のような4県ではなかった。徳島は4年間、高知に併合されていた。さらに、香川は徳島と愛媛に相次いで併合され、その期間は14年間に及んだ。独立運動の末、1888(明治21)年に全国47都道府県体制の最後の県として復活した。その立役者、中野武営(たけなか)(1848~1918年)は近年、県民にも忘れられた存在だったが、10月に高松市に銅像が完成した。台座には「香川県独立の父」と刻まれている。【佐々木雅彦】

 銅像(高さ4・6メートル)は高松城跡が広がる玉藻公園(高松市玉藻町)にある。建立した「中野武営顕彰会」などによると、中野は江戸時代後期に高松藩士の家に生まれた。やがて明治維新を迎え、1871年、廃藩置県により讃岐に高松県と丸亀県が設置され、同年内に両県が合併して香川県が誕生した。中野は廃藩置県後、高松県の役人を経て政府官僚として働いた後、大隈重信の下で立憲改進党の結成に参加し、政界人脈を培っていった。

 香川県は73年に名東県(阿波と淡路)に併合された。2年後にはいったん香川県に戻ったが、76年に今度は愛媛県に併合された。同年には名東県が高知県に、宮崎県が鹿児島県に、鳥取県が島根県に、浜松県が静岡県に併合されるなど全国で多数の統合再編が実行されている。

 中野が独立運動に本格的に関わるのは88年4月、讃岐を併合していた愛媛県の議会議長に選任されてからだ。中央への太いパイプを生かし、大隈外務相や黒田清隆首相ら要人に働きかけたとされ、香川県設置が同12月に勅令で公布された。

 当時の新聞は、県庁所在地に決まった高松の街が歓喜にわく様子を「人民は有頂天になりほとんど商売も手につかざる有り様」などと盛んに報じた。

 一方で、独立への反対運動も何度か展開された。勅令公布の前月には、西讃(讃岐西部)の各郡選出の愛媛県議らが上京して伊藤博文枢密院議長らに面会して反対を訴えたこともあった。

 「香川県史」は、反対運動が起きた背景に、当時の讃岐の経済の中心が高松よりも丸亀・多度津だったため「分県独立すれば讃岐国内の比重が(高松など)東讃に傾く」と考えた人たちがいたことなどを挙げている。

 中野はその後、衆院議員や実業家として東京を中心に活躍。1905年には「財界の総理」と称される東京商業会議所の第2代会頭に渋沢栄一の後任として選ばれた。

 しかし時とともに、中野の独立への貢献は顧みられることが少なくなっていった。87年発刊の香川県史や、88年の香川県独立100年の記念事業をまとめた記録集にも、十分な記載がない。2018年に設立された顕彰会が、功績を紹介する教材を編集して県内の小中学校に寄贈したり、銅像建立に向けて寄付金を募ったりしたことで、知名度が回復してきた。

 顕彰会の設立には、中野の分骨を納めた墓(高松市の蓮華寺)が深く関係している。

 08年、中野の子孫から四国新聞社(同市)に「武営のことを後世に伝えるためにも墓を修復したい。相談に乗ってほしい」とつづられた手紙が届いた。顕彰会事務局長の山下淳二さん(76)は当時、同社編集局長だった。手紙を読んで感動し、個人の立場で協力を引き受けたことで、09年に墓が新しく生まれ変わった。その後、子孫との交流が深まり、旧高松藩主の松平家の関係者と引き合わせ、顕彰会設立の機運が生まれた。

 中野は生前から、親しみを込めて「ブエイさん」と呼ばれた。顕彰会の佐伯勉会長は10月にあった銅像の除幕式で「今ではブエイさんのことを道行く人に尋ねれば、『知っているよ』という返事がいくつも返ってくるのではないか」と感慨深げだった。山下さんも「今、香川県があるのはブエイさんがいたからだ。銅像を見てそのことに思いをはせてもらえれば」と願う。

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