二重被爆の体験を語る福井絹代さん=長崎市平野町で2024年10月20日午後1時39分、尾形有菜撮影

 広島と長崎で二重被爆した青森市の福井絹代さん(94)と、弟の相川国義さん(2017年に84歳で死去)の体験をたどる企画展「幼い姉弟が見た広島・長崎」が、長崎市平野町の国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館で開かれている。相川さんが原爆投下後の広島、長崎を描いた絵と手記、福井さんの証言映像などが見られる。31日まで。入場無料。【尾形有菜】

二重の苦しみ、絵や証言映像で

 2人は長崎市で生まれ、三菱重工に勤務していた父の転勤で1944年に広島市へ転居。45年8月6日、当時14歳の福井さん、12歳の相川さんは爆心地から約1・8キロの同市千田町で被爆した。自宅は全焼し、姉弟は親戚を頼って汽車で長崎に向かった。汽車は9日に道ノ尾駅の手前で止まり、2人は線路伝いに長崎駅方面に歩き、爆心地近くを通って入市被爆した。

相川国義さんが被爆後の浦上天主堂を描いた絵と手記=長崎原爆資料館所蔵

 企画展では、相川さんが原稿用紙に描いた県内初公開の絵と手記計91点を展示し、20日には福井さんが会場で証言。広島の川いっぱいに人が浮いて死んでいたことや、長崎駅に向かって歩いている時に人や馬の死体を「ごめんなさい」と言いながら踏み越え、その感触を今も時折思い出す苦しさなどを語った。

 福井さんは結婚後、夫の実家がある青森に転居。「出身地を『長崎』と答えると、『ピカドンだ』と変な顔をされた。だからその後は出身地をごまかし隠していた」と明かした。

 福井さんは、相川さんの絵を初めて見た時のことを「よく思い出して描いたもんだと泣きながら見た」と振り返った。そして、「若い人たちが(絵や手記を見て)何を考えてくれるだろうか。今の若い人たちには戦争のつらい経験をさせたくない」と語った。

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