石川県輪島市門前町深見の集落は、元日の能登半島地震の影響で道路が寸断されて孤立し、住民がヘリコプターで避難した。それから8カ月余りがたった9月には豪雨に襲われ、集落の中央部を流れる深見川が土砂を含む大水で氾濫した。地震から1カ月後に見た集落の姿は一変していた。
記者は豪雨から1週間ほどたった9月28日、現地を訪ねた。深見川の護岸はえぐり取られ、多くの流木が散乱していた。川沿いの生活道路も至る所で崩落している。
地震後に風雨などで傷まぬようにと板やブルーシートを使って補修をしていた家々も、壊されていた。
ある民家では、150センチほどの高さまで水没した跡が残っていた。「民家の間の小さな道にも、川からあふれた急流が走ったのでしょう」。泥出しの作業を続ける70代の男性が教えてくれた。
元日の地震で海底が隆起して「陸化」した深見漁港前の河口付近にも、大量の流木が積み重なっていた。家屋からの泥出しや流木の処理に追われる住民の顔には、疲れた表情が浮かぶ。
門前町深見と隣接する門前町鹿磯(かいそ)を結ぶ海岸線の市道は、元日の地震で大規模に崩れた。いったんは復旧工事で通行可能となったが、今回の豪雨でも数カ所で斜面が崩れ、再び道が閉ざされた。
門前町深見の住民約30世帯の大半は、地震後から近隣の仮設住宅で避難生活を続けていた。自宅の片付けや補修などのため車で行き来できなくなり、地震で隆起した海岸線を歩いて移動することになった。
住民と一緒に泥出しや流木の除去にあたっていたのは、NGO「シンクローカリー・アクトグローバリー」(金沢市)のメンバーだ。小島路生事務局長(50)は「大量の泥が被災家屋に入り込んでおり、土砂の量に対して人手が足りていないのが現状です」と語った。
集落で暮らしていた角海義憲さん(72)は、水没した家屋内で片付けをしていた。地震で壊れた自宅を建て替えようと、家屋の設計をお願いしていたばかりだった。
大雨による床上浸水の跡が壁にくっきりと残り、畳が浮き沈みを繰り返し、波打っていた様子を説明した。運び出そうと整理していた家財もみな水につかった。
「大好きな場所なので戻りたいと思っていますよ。でも、どれだけの住民が戻れるのか心配です。みんながあっての良い場所なんですから」
住民からは、地震と今回の豪雨による被害との「二重被災」の場合について「罹災(りさい)証明書発行の根拠となる被害の再調査は行われるのだろうか」という声もあった。
豪雨による被害は門前町鹿磯でもあった。
「元日の地震による隆起で海岸線が100メートルほど海側へ延びたと思ったら、今度は裏山が崩れ落ちてきました。みな、泣くに泣かれん状況ですよ」
浦口義夫さん(77)は、そう語った。裏山の頂上部には地震で被害を受けた菅原神社があるが、再建もままならぬ中での出来事だった。
裏山からの土砂は山裾にあった民家を押し流し、浦口さんの自宅前の道路を埋めた。さらに別の民家の母屋なども倒壊させた。家屋にも土砂が流れ込み、一時、71歳の男性が生き埋め状態になった。
近隣住民がうめき声に気づき、浦口さんは奥能登広域圏事務組合の消防本部に連絡を入れたが、つながらない。過去に消防勤務の経験もあり、管轄する2市2町(輪島市と珠洲(すず)市、能登町、穴水町)は各地が緊急事態で大変な状況だと悟った。別の消防にも助けを求めるなどし、その約5時間後に男性は救出された。
能登半島では、2007年3月に最大震度6強の地震に見舞われた。その時、浦口さんの自宅が全壊。再建した家屋は柱に耐震化を施すなどしていたが、今年の元日の地震で、損害の割合が10%以上20%未満に当たる「準半壊」と判定された。
「17年前の地震後のボランティアらとのつながりが、今の被災地を支えている。奥能登全体が深刻な状況にあり、遠慮せずに『助けてほしい』と伝え、当時のボランティアを頼りにしていきたい」
鹿磯に隣接する門前町道下(とうげ)には、元日の地震後に仮設住宅が建てられた。そこには、17年前の地震後にも仮設住宅があった。
そのすぐ横には、浦口さんの言葉を映すように、住民やボランティアがメッセージを書いて木板を並べた「絆の木道(こみち)」の碑があった。当時、復旧や復興に向けて、被災者とボランティアらが手をとりあい、支え合った証しという。【高尾具成】
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