「大東亜決戦の歌」フィルムの一場面。中央が初代市川猿翁=猿翁アーカイブ所蔵映像資料「大東亜決戦の歌」から
写真一覧

 太平洋戦争の開戦直後、国民の戦意高揚を目的に、毎日新聞の前身である東京日日新聞と大阪毎日新聞が歌詞を公募した軍歌「大東亜決戦の歌」の宣伝映画のフィルムが見つかった。歌舞伎俳優の初代市川猿翁(1888~1963年)が歌に振り付けした舞踊の映像も収められており、戦時中の国家総動員体制下における、軍とマスメディア、芸能界の密接な関係を示す資料といえそうだ。

 日中戦争から太平洋戦争にかけて生まれた軍歌は、新聞社が公募し、紙面や発表イベントなどで普及したものも多い。「大東亜決戦の歌」は、開戦翌日の41年12月9日から歌詞が公募された。当時の記事によれば、5日間という短い募集期間にもかかわらず約2万5000点の作品が集まり、その中からレコード会社勤務で歌人でもあった伊藤豊太の作品が選ばれた。作曲は海軍軍楽隊が手がけている。

 フィルムは、初代の孫である二代目猿翁(39~2023年)が16年に京都芸術大(京都市左京区)へ寄贈した約2万点の資料「猿翁アーカイブ」のデジタル化を進める過程で研究者らが確認した。約8分の映画で、軍の検閲のもと、42年ごろに両紙が製作したとみられる。

1941年12月9日付の東京日日新聞朝刊に掲載された「興国決戦の歌」募集の社告記事。募集開始後の同12日に「大東亜戦争」の呼称が閣議決定され、「大東亜決戦の歌」と改められた
写真一覧

 冒頭、「作舞」として市川猿之助(初代猿翁)の名が紹介され、「特別奉仕出演」として猿之助、市川八百蔵、市川段四郎らの名が続く。前半は、歌に合わせて戦地などのニュース映像と歌詞が交互に映り、後半に舞踊の舞台映像が収められている。「起(た)つや忽(たちま)ち撃滅の/かちどき挙(あが)る太平洋」「いま決戦の時来る」などの歌詞にあわせ、扇を手にした5人が、回転や跳躍を取り入れた勇壮な踊りを披露している。

 歌舞伎研究者の田口章子・京都芸術大教授は、初代猿翁が当時、舞踊劇「黒塚」(39年初演)などで近代的な感覚に基づく新作舞踊の創り手として注目されていたことから作舞を任されたのではないかと考察。「国家総動員法により、歌舞伎役者も全国を巡演して勤労者の慰安につとめるなどの協力を余儀なくされた。そんな時代の一側面を示す貴重な資料といえる」と語る。

 今回見つかったフィルムは京都芸術大で21日に開かれるフォーラム「猿翁アーカイブにみる三代目市川猿之助の世界」で、他の映像資料とともに紹介される。【関雄輔】

国家総動員法

 戦争遂行のため、国民生活や経済を統制する権限を政府に与えた法律。1937年に始まった日中戦争の長期化により、38年に制定された。資源の管理から、労働力の徴用、価格や言論の統制まで、国民生活のあらゆる分野に影響が及んだ。45年の敗戦に伴い、廃止された。

鄭重声明:本文の著作権は原作者に帰属します。記事の転載は情報の伝達のみを目的としており、投資の助言を構成するものではありません。もし侵害行為があれば、すぐにご連絡ください。修正または削除いたします。ありがとうございます。