北海道十勝地方にあった唯一の炭鉱で、1954年に閉山した浦幌町の「浦幌炭鉱」の歴史や当時の暮らしを振り返る企画展「閉山から70年」が町立博物館で開かれている。最盛期の人口が3600人に達した炭鉱街はいま、道有林の中に埋もれ、かつての活況を知る人も少なくなった。町立博物館の持田誠学芸員は「懐かしむと同時に、朝鮮人労働者の多さなど、当時の炭鉱労働の実態も知ってほしい」と話す。【鈴木斉】
道内の炭鉱といえば釧路や空知地方をイメージしがちで、十勝にも存在した事実はあまり知られていない。企画展は消滅した「ヤマの町」の記憶を所蔵資料でたどり、町の歴史として継承していくのが狙いだ。
浦幌炭鉱は、町中心部から約20キロ北東側の山間部にあり、釧路炭田の西端に位置する。1918(大正7)年に採掘が始まった。出炭量は、38年から数年間のピーク時に年間約17万~18万トンに上った。産出した石炭は、隣町の尺別炭鉱(釧路市音別町、70年閉山)経由で釧路港に運ばれていた。
炭鉱地区は小中学校や高校の分校、映画も上映された会館、病院などがあり、商店街もにぎわった。浦幌炭鉱小学校は約370人の児童が通っていた時期もあったという。
炭鉱労働者は最盛期に900人を超えたが、政府が44年8月、戦況悪化に伴う海上輸送の困難さを根拠に、労働者を釧路炭田などの炭鉱から九州の炭鉱に強制的に配置転換することを決定。浦幌炭鉱は休鉱し、戦後の47年に操業を再開したが、石炭需要の低迷などで閉山を余儀なくされ、住民も次々に去った。
現在、炭鉱街は道有林に覆われ、朽ち果てた当時のアパートや建物の土台などが「炭鉱遺構」として残っているだけだ。
企画展で並ぶのは、当時の暮らしが分かる写真パネル、炭鉱員が坑内で使っていたヘルメットや安全靴、ガス自動警報器など。幼少期に炭鉱街で暮らした男性が町並みを詳細に再現した模型のほか、労働組合の資料や労働者の給与明細なども展示されている。
「炭鉱と戦争」にも焦点を当てた。九州の炭鉱への配置転換の経緯や、炭鉱夫が徴兵される中、その穴を埋めるように、多くの朝鮮人労働者が炭鉱作業に従事していたことを説明。浦幌炭鉱でも戦時下の43~44年、朝鮮人労働者が500人を超え、日本人を大幅に上回っていた実態を数値で具体的に示した。
持田さんは「小規模とはいえ、当時の日本の国力を支えた炭鉱がここにあったという事実は、地域の貴重な歴史として記録化したい」と語った。
23日にシンポ
企画展は29日までで入館は無料。町立博物館は「浦幌炭鉱に関する新たな資料の収集も進めており、情報提供をお願いしたい」と呼びかけている。また、企画展の関連事業として23日午後2時から、館内の視聴覚ホールで、シンポジウム「炭鉱遺産の保存と活用のいま」を開催する。入場無料で申し込みも不要。問い合わせは町立博物館(015・576・2009)。
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