藤原京左京七条一坊跡(奈良県橿原市上飛騨町)から2001年に出土した飛鳥時代末期の木簡1点を奈良文化財研究所(奈文研)が再調査した結果、当時の役人が使っていた「九九早見表」の一部とみられることが分かり、同研究所紀要で4日公表した。担当した桑田訓也・主任研究員(古代史)によると、最古級の九九早見表の確認例。律令国家で九九が広く用いられたことを示す貴重な史料という。
木簡は高さ16・2センチ、幅1・2センチ。縦書きで1行に文字群が3段分書かれ、肉眼で「十一」「六」「六八」の計5文字のみ判別できた。奈文研は当初、1段目を「九々(くく)八十一」、3段目を「六八卌(よんじゅう)八」と推定。九九を練習したメモ代わりの木簡と解釈した。
最新装置で再調査、不明の文字を解析
桑田主任研究員が2023年7月、最新の赤外線観察装置で再調査した結果、読めなかった2段目は「四九卅(さんじゅう)六」と判明。三つの九九の規則性から木簡はメモでなく、古代中国で使われた九九早見表の右上部分とみられることが分かった。元の表は長さ32・6センチの木の板に「九々八十一」から「一々如一(いちいちはいちのごとし)」まで主要な九九37個を列記。大きい順に右から左に5行8段で書いていたと結論づけた。
01年の発掘では役所跡と木簡約5000点以上を発見。木簡の数はその後、約1万3000点に増えた。木簡の内容から遺構は法典「大宝律令」が制定された701年ごろのものとみられ、役所は藤原宮の門の警備に当たった「衛門府」と考えられている。警備を行う「衛士(えじ)」は数百人もいたことから、九九早見表は事務官が衛士の勤務管理のための計算に使ったもので、役所の壁に掛けるなどして共用されたとみられている。
九九は春秋時代(紀元前8~同5世紀)の中国で成立。日本伝来の時期は不明だが、大型古墳築造には九九など数学の知識が必要だったとみられている。
桑田主任研究員は「藤原京では一部の技術者だけでなく、一般の役人まで九九を日常的に使っていたことを示す史料。現代と同じく当時の役所でも勤務管理は一苦労で、事務官は早見表を傍らに計算に苦闘していたのだろう」と話している。
研究成果は奈文研のホームページで5日から閲覧できる。【皆木成実】
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