極寒の地で強制労働をさせられた“シベリア抑留者”の遺骨が故郷の佐賀へ80年ぶりに帰ってきた。母親は生前、いつか帰ってくると信じ待ち続けていたという。遺骨はいま、母と共に墓で静かに眠っている。

19歳で出征…故郷に帰還した遺骨

佐賀・吉野ヶ里町に住む西村正紘さん(83)。父親の弟にあたる叔父の西村壽弥男さんを戦争で亡くした。  

西村壽弥男さん
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その壽弥男さんの遺骨が2024年6月、80年ぶりに故郷に帰ってきた。

昭和19年(1944年)、壽弥男さんは徴兵検査を受け、19歳で中国大陸へ出征。そのまま帰らぬ人となった。

葬式の後も帰りを待ち続けた母

当時は中国で戦病死したと聞き葬式をあげたが、壽弥男さんの母は息子の帰りをずっと待っていたという。

出征前、小学校で代用教員をしていた壽弥男さんは、やさしい人で甥の正紘さんをとてもかわいがっていた。遺骨を受け取った正紘さんは、壽弥男さんの母である生前の祖母について思い出を語る。

西村正紘さん:
祖母が毎食、陰膳をあげて、『これ壽弥男さんの』『裏の戸は鍵を閉めたらいけない。いつ帰ってくるかわからないから』と(言っていた)。亡くなったということではなくて、いつか帰ってくると信じていた。それを覚えている

“シベリア抑留で死亡”明らかに

ところが戦後77年経った2年前(2022年)、正紘さんのもとへある知らせが入る。
国の調査で、壽弥男さんがシベリアで亡くなったことがわかったのだ。

太平洋戦争終戦の直前にソ連、現在のロシアは日本と結んでいた条約を破り中国東北部などへ侵攻し、とらえた日本兵などを、極寒の地で強制労働させた。いわゆるシベリア抑留だ。約5万5000人が帰国できず死亡したといわれている。

壽弥男さんも連行され、イルクーツク州の収容所の病院で1945年昭和20年12月に死亡していた。

厚労省の調査で遺骨を特定

厚生労働省は、海外などで戦没した人の遺骨を収集し遺族へ届ける活動を行っている。記録が残る1991年度から2023年度末までに1659人分が返還された。

担当部署ではロシア語の資料を翻訳し名前や出生地などの情報を集め、日本側の情報と照らし合わせて身元を特定する。
国が収集した遺骨から壽弥男さんのものとみられる遺骨も見つかったのだ。

厚生労働省の担当者は、ソ連邦政府から提供を受けた「ソ連邦抑留死亡者名簿」といわれる資料を見せてくれた。

厚生労働省の担当者は、「他では名前が少し歪んでいたり離れていたり、そういった事例が多かったが、西村壽弥男というようにきれいな名前が残っていた。これはやはり大きなポイント」と特定に至った経緯を説明した。

さらに「サガ・カンザキ・ヒガシセフリ」と当事者が関わっていないと書けないような出生地の記載など有力な情報が集まったことから正紘さんへの連絡につながったという。

厚生労働省の担当者:
1人でも多くの人の特定作業を進めることによって、遺族の思い・心に寄り添うかたちで特定できたという知らせを届けることができれば幸いだと考えている

80年ぶりに…ふるさと佐賀へ

そして2024年6月、DNA鑑定などを経て、壽弥男さんの遺骨が帰ってきた。

ふるさと佐賀へは80年ぶりの帰還だ。

西村正紘さん:
ほっと笑顔を見せているのではないでしょうか。私たちもそう思うことで救われます。家族や一族にとってはずっと身内を待っていたので、夢が実現したといいますか、それはもう関係者の皆様にありがとうと言うよりほかありません

待ち続けた母と共に…静かに眠る

2024年8月12日、お盆を前に正紘さんは孫たちと西村家の墓へ。

遠い極寒の地シベリアで亡くなった壽弥男さんは、帰りを待ち続けた母と共に静かに眠っている。

西村正紘さん:
壽弥男さんもほっとしていらっしゃるかな。ゆっくり休んでくださいという言葉が一番です。いろいろつらかったことはあるでしょうけれど、ふるさとを思う気持ち、自分の生まれ育った家を思う強い気持ちが、わが家へたとえ骨になっても遺骨になっても帰ってこられたのではないかと思っています

(サガテレビ)

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