「終わらなかった戦争」がある。79年前の8月15日、太平洋戦争で敗れた日本が降伏を宣言した後も、日本の統治下にあった南樺太(現ロシア・サハリン南部)では、ソ連軍の侵攻によって地上戦が展開された。ソ連の軍隊と移民が押し寄せる中で、日本人はどう暮らし、生き延びたのか。そして今何を思うのか。元島民に語ってもらった。【法政大・岩村凌(キャンパる編集部)】
押し寄せた兵士と移民
現在、北海道旭川市に住む石田アイ子さん(89)は、久春内(くしゅんない)村(現サハリン州イリインスキー)で生まれ育った。父親の仕事は板金業で、母親、祖母、6人兄弟の9人家族。アイ子さんは上から4番目だった。久春内は、南樺太の真ん中、北緯48度線付近にある人口3000人程度の村だった。オホーツク海に面した樺太は、冬場の寒さが厳しく雪が吹き付ける極寒の地。米が育たず、主食は麦。食生活は質素だった。
石田さんは国民学校4年生の時に終戦の日を迎えた。ソ連による侵攻はその直前から始まり、久春内にもソ連の兵士、移民が押し寄せてきた。村内で日本人との戦闘や小競り合いはほとんどなかったが、「小学校でもソ連の国歌をロシア語で歌わされるようになり、とても屈辱的だった」と当時の心境を明かす。
歌や踊りで生まれたつかの間の交流
村の中にはソ連人が居住する区域への往来を制限する遮断機が設置され、風貌も言葉も違う見知らぬ者同士の暮らしには緊張感が生じた。だが石田さんの隣の家に住んでいた豆腐屋の青年がソ連軍の部隊に村民との交流を呼びかけ、その行動が事態に大きな変化をもたらしたという。
青年は旧日本軍に徴兵された経験を持ち、ソ連軍に知られれば、シベリアへ送られるのが確実な状況だった。そこで、わらにもすがる思いで将校に相談したのだという。すると、将校はこんな提案をしてきた。「樺太には娯楽がない。娯楽で兵隊を楽しませるようなことができれば状況が変わるかもしれない」
そこで、村人たちは有志で楽劇団を結成。全員、素人だったというが、日本の歌や踊りを必死に披露した。その結果「日本人のお客さんからソ連の兵隊まで、みな大騒ぎで喜んだ」という。村人たちの作戦は成功だった。
その後、村では、盆踊りが行われた。日本人が着物を着て楽しく踊る姿を見て、ソ連人たちは、見よう見まねで踊り始めたという。同じように着物を着て踊りたいと、着物を貸すよう頼んでくる人々もいた。「ソ連人」も「日本人」も関係なく、盆踊りを楽しんだ。
しかし、その生活も決して長くは続かなかった。1947年6月20日。石田さんら村人たちがソ連政府から引き揚げ命令を受けたのだ。急いで布団などを詰めた。駅へ向かうと、そこには住民や将校ら、多くのソ連人が見送りにきていたという。
ソ連政府のやり口に怒り
こうして日本人、ソ連人が平和的に共存できたのは、例外的なことだったのかもしれない。ソ連軍の侵攻で、南樺太では民間人を含む5000人以上の日本人が死亡した。地上戦と、その後の引き揚げで悲惨な経験をした人は数多くいる。
実際、石田さんと同じく旭川市に住む女性(85)は、ソ連軍の艦砲射撃や移民による略奪に遭遇した。叔父は捕虜として捕らえられ、材木施設で強制労働させられたという。引き揚げに際しても逃亡と受け取られ、追っ手をかけられ銃撃される始末だったという。
「樺太でソ連の人からひどい扱いを受けたことはない」と話す石田さんも、ソ連、そして現在のロシアという国に対してはまったく違う感情を抱いている。
きっかけとなったのは、久春内に進駐してきたソ連軍に少年が組み込まれていたことだ。「変声期の前の少年たちがいたんですよ。親にも内緒で畑から連れ出して、兵隊にして、樺太に送り込んでいたんです」。彼らは、戦争が終結した後も親元に帰ることができず、樺太での生活を強いられたという。
また軍隊とともに樺太に大挙して押し寄せた移民は、誰も食料や財産を所持していなかった。石田さんはこんな話を聞かされたという。「ソ連政府から、新しい土地があって、家も財産も手に入るから、手ぶらでいってこられるからと紹介された」。しかし現実はまったく違い、食料や住居が手に入らず苦しむことになる。石田さんも「ジャガイモをわけてほしい」と頼まれることがあったという。そして略奪行為に走る者も出た。
石田さんは、当時の状況と現在のウクライナ侵攻を照らし合わせ、「ソ連、ロシアというのはどこまでも無責任な国家ですよ。いまのウクライナ侵攻を見ていても強く感じる」と話す。そのうえで「私は国を憎んでも、人を憎んだことはなかった。目の前にある人を憎んでも解決しない」と語った。
忘れられる悲しみと危機感
来年には戦後80年を迎える。南樺太からは終戦後、30万人近くが引き揚げたとされるが、生存者は減り続け、引き揚げ者らでつくる「全国樺太連盟」は会員の高齢化で活動の継続が難しくなったとして、2021年に解散した。
一方で、記憶の風化も深刻だ。昨年6月の記者会見で、当時の松野博一官房長官は太平洋戦争末期の沖縄について「日本で唯一の地上戦があった地域」と発言。すぐ訂正に追い込まれた。実際には、樺太ではソ連軍侵攻で地上戦が行われていたからだ。過去にも「沖縄が唯一」という発言は政府要人から繰り返し行われ、10年に「不正確」と政府統一見解が出ていた。それにもかかわらず、樺太で何が起きたのか、その認識は定着していない。
むしろ逆に、引き揚げ者の高齢化や減少を背景に、記憶は一段と風化する恐れがある。こうした現実について石田さんは「広島、長崎に比べ、被害の状況があまりにも伝わっておらず、ただただ悲しくなる。しっかり語り継いでいかなければ」と危機感をあらわにした。
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